月別アーカイブ: 2019年4月

書けなかったホメロスなど #51

アウグスティヌス「告白」は精々3回くらいのつもりで書き始めたのに、全7回になった。この本には、私のような不勉強な非信者をもかきたてる何かが宿っているようだ。当初の「ドン・キホーテはなぜ面白いのか」考えるというテーマからは、思いがけないほど遠くに来てしまった。全50回で終わりにしようという心づもりだったが、それも超えている。なのにホメロス「イリアス」「オデュッセイア」について書くという決意を果たしていない。

ホメロスの前に、アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』(大牟田章訳、岩波文庫)を取り上げるのも断念している。いったん書き始めたのだが、続けられなかった。ヘロドトス「歴史」、クセノポン「アナバシス」が面白かったので、続いて読むならこれだろうと目星をつけたところ、期待は裏切られなかった。『アレクサンドロスの征服と神話』(森谷公俊、講談社学術文庫)なども読んで、ここに書く参考にしようと準備を整えていた。しかし、いざ取りかかったら、「歴史」と「アナバシス」の時のような高揚感が湧いて来ない。「東征記」が、多くの史料を活かして綴られた司馬遼太郎のような歴史「読み物」であるせいなのか。はたまた、古代の戦記については書きたいことは粗方書いてしまったせいなのか。何度かトライして、とうとう諦めた。 続きを読む

古代から近代を超えて 「告白」(7) #50

アウグスティヌスの名、「告白」という書名を知ったのがいつだったのか思い出せない。世界史を習った高校時代には遡れそうだ。読むべき本としてずっと気になっていたが、同時に、内容を知らないのになぜだか読みたくないとも思っていた。その「予感」は、半分あたっていた。聖なる書物があり、絶対的な神の導きがあり、という彼の信仰の世界を否定するのではない。しかし、前回の最後の二つの引用をみてほしい。好奇心の囚人である私は(この歳になっても。幸いにも?)、湧き出る疑問に蓋をし、聞こえて来る声に耳をふさぐように勧める……命令する言葉にうなずくことはできない。アウグスティヌスが教会の壁の向こうに行ってしまったことは、痛恨事なのである。

いや、アウグスティヌスは壁の向こうに行ったどころではなく、そこで聖人とされたのだ。かつての不良仲間は、お偉くなっちゃって、昔はいっしょに悪さをしたのにね、と絡んだだろうか。それとも、アグちゃんがただ者じゃないのはあの頃から分かってたよ、と早速奉る姿勢に転じて、ちゃっかり自分も周囲から一段高いところに置いただろうか。聖人というと、迫害され拷問を受けながら棄教しなかった殉教者、あるいは苦難に遭いながらも布教に努めた伝道者というのが一般的なイメージだろう。安定した暮らしをしていたアウグスティヌスの列聖には違和感がある。しかも、息子を回心に導いたとして母モニカまでも聖人とされている。教会の壁を厚くするのはそれほど立派なことなのか、と信仰心に欠けたニワカ愛読者としては皮肉を言いたくなる。

アウグスティヌスの正直な「告白」のおかげで、私たちは彼の女性問題を知っている。若い頃に子供を産ませた身分違いの女性と長く同棲した後、別の女性と正式の結婚をするために彼女をアフリカに帰す。婚約した相手は、註釈によれば十歳の少女である。 続きを読む

壁の向こう側へ 「告白」(6) #49

アウグスティヌスが好奇心の人だったことは、「告白」を読めば明らかだ。なので、青年アウグスティヌスがマニ教を信じるに至ったことについても好奇心の働きがあった、と想像するのは許される気がする。さらに、キリスト教が好奇心を否定するが故に、彼は一旦キリスト教から離れたのだとまで言えば、さすがに妄想と叱られるかもしれないが(個人的にはあり得ると思っている)。アウグスティヌスは、聖書を批判する「愚かな欺瞞者たちの意見に同意」したのである。しかし、やがてマニ教の教師たちの無知に失望し、その教説が彼の知的好奇心を満足させなかったために、彼はキリスト教に回帰したのだった。

#24で、私は旧約聖書中の虐殺の記述に気分が悪くなって、読書を中断したと書いた。中公文庫版『告白』本文と註によれば、マニ教も旧約中で「人々を殺す」者が義人(正しい人)とされることを批判していた。ここでの義人とは主にモーセを指す。マニ教徒の批判に対するアウグスティヌスの聖書擁護の弁をみてみよう。 続きを読む

好奇心に「たおれる」 「告白」(5) #48

 

アウグスティヌスは、ギリシア語を「残酷な脅迫と罰でもって、はげしく責めたてられて」教えられたために、ギリシア語やギリシア文学を嫌うようになった(古代ローマ時代の学生にとってのギリシア語は、私たちにとっての漢文? あるいは、かつて日本の医学生にとってドイツ語が必須だったような感じか?)。それで、アウグスティヌスは「言語を学ぶうえで、効果のあるのは、恐ろしい強制ではなくてむしろ、自由な好奇心である」と述べる。極めて現代的でもあれば、納得もできる意見なので、私たちはうなずく。

ところが、しばらくして本文中に「好奇心という悪徳」とあるのを読んで、ギョッとなった。実は、先の文章の後に「好奇心の流れを恐ろしい強制がせきとめるのも、神よ、あなたの法による」とあったのに、読み落としていたのだ。Ⅱでは「不必要にものを知りたがる好奇心」が、肉欲と共に、アウグスティヌスにとって克服しがたいものであったことも語られている。好奇心は否定されるべき悪だったのである。

この好奇心批判は、ネット全盛の現代社会においてわかりやすい。クリックやタップで興味のおもむくままにネット上を飛び回っていると、「好奇心の流れ」を断ち切って勉強や仕事に頭を立ち戻らせるのが難しくなる。好奇心が人をネットの囚人に仕立てるのだ。しかし私は、好奇心を「悪徳」とすることには承服できない。自分がネットの虜であることには嫌悪を感じるものの、好奇心の虜であることについては恥じない。それはこの世を生きるのに必要な力だからだ。耳鳴りがやまなくなって、私は音楽を聞く楽しみを失った。音楽は私にとって至高の娯楽と思っていたが、そうではなかった。好奇心は、私を今さら古典を読む大きな喜びに導いてくれたのである。

好奇心が否定されるのは、それが神への帰依を妨げるからだ。アウグスティヌス風に言うなら、好奇心は神の光に背を向けて光に照らされるもののみに興味をいだくことであり、光そのものである神に顔を向けるのを妨げる。好奇心の善し悪しの判断は、信仰によって決まるということになりそうだ。私はキリスト教信者ではなく、好奇心の方には味方をしたい理由があった。そもそも好奇心を否定しながら、アウグスティヌス自身からして好奇心の塊だったではないか。微弱な好奇心しか持たない人間に、真に創造的な文章は書けない。下記は、好奇心をめぐる創造的な文章の例である。 続きを読む

表現と翻訳のすばらしさ 「告白」(4) #47

#34の終わりに書いたように、中公文庫版のⅡ巻になると「『好きになれない』が『嫌い』に昇格し」、面白さも半減した。Ⅰは成長小説として読めるが、Ⅱは回心(=カトリック教会への全面的帰依)というゴールに至る「宗教的告白」という性格が前面に出て来る。カトリック信者ならざる身では、アウグスティヌスという「主人公」に最早それほど親身になれないのだ。にもかかわらず、これも前に書いた通り、楽しく読める。多くは、ずば抜けた表現力に裏打ちされた文章の魅力による。前回に続いて、例をあげたい。

アウグスティヌスはマニ教を捨てた後、キリスト教徒としての自覚を確かなものとするが、回心への道のりは捗らない。神に自らをゆだねるべきと思いつつも、欲情にとらわれていた、と語る。「眠れる者よ、さめよ……」と聖書を引いた後、「習慣のもたらす暴力」によって、神に対し答えるすべを知らない自らの状態について、次のように書く(文面が煩わしくなるので、この後しばらく引用前後の「 」を省略する。基本的に、です・ます調の文章が引用文)。

私の答えはただ、「もうすぐ」「まあ、もうすぐ」「ちょっと待って」という、ぐずぐずとした、眠たげなことばだけでした。しかもこの「もうすぐ、もうすぐ」ははてしがなく、「ちょっと待って」はいつまでもひきのばされてゆきました。

上記は、カトリック教会への帰依が遅滞するのを、目覚めた後、起き上がりたくなくて寝床の中でグズグズしている状態にたとえているのだ。卓抜した比喩表現であると共に、だれしも身に覚えのある日常的な葛藤のユーモアあふれる描写でもある。こうした内的な対話の形をとる文章は、他にも登場する。例えば、表面的な身体感覚がどのように内部に入って来るのかについて、アウグスティヌスは次のように書く。 続きを読む

元不良の教師 「告白」(3) #46

アウグスティヌスの表現の見事さについては、例をいくらでも挙げることができる。しかも、その文体と彼の人間的な魅力とは一体のものとなっており、「告白」という書物を読み応えのあるものにしている。いくつかピックアップしてみよう。

故郷の町で教師を始めた頃、彼は「自分の魂の半分」と語るほどの親友を得たのだが、その友人は突然の病で亡くなってしまう。友人の病と死をめぐる記述には凶暴なほどの悲しみが宿っている。しかし、アウグスティヌスの真骨頂は、その悲しみを薄れさせる「時」について語る時に発揮される(時間論は彼の中心的な探究テーマの一つである)。

「時はむなしくやすんでいるのではなく、なすこともなくわれわれの感覚をとおして過ぎさってゆくのでもありません。それは心のうちに不思議な業をなすのです。どうでしょう、時は日に日に来たり、去ってゆきました。来たりまた去りながら、私のうちに別の希望と別の記憶とをうえつけ、徐々に以前のさまざまな種類の快楽で私をつくろい、先のあのかなしみはこれらの快楽に道をゆずってしだいに消えてゆきました」 続きを読む