井上靖『天平の甍』に驚く

 風土記の私訳を始めようとして、そういえば井上靖の「天平のいらか」はこの時代の遣唐使を描いたものだっと思い、何かの参考になればと書店に向かいました。このブログにおいて風土記関連で触れた人物中、藤原宇合うまかいと山上憶良は遣唐使でしたし、春日蔵首かすがのくらのおびとおゆ老も唐ではないものの新羅へ留学していた可能性があります。

 元々井上靖に関心がなく、妻の実家に近い文学館に連れられて行ったのに何を見たのか記憶なし。最近、井上靖が話題になるようなこともなく、近所の大型書店に在庫がなくても仕方ないと思っていました。が、ありました。それどころか新潮文庫の棚に15、6冊、井上靖の小説が並んでいたのです。びっくり。

 棚の位置が近いので比較すると、井上ひさしの倍はありました。どちらも売れっ子だったわけですが、没年は1991年と2010年。20年も後に亡くなったひさし氏の方が多いのが自然に思えます。が、実態は……。何しろ、売れ行きにシビアなことで定評のある(?)新潮文庫です。井上靖は今もそんなに人気があるのかと再び驚きました。

 奥付を見ると、文庫の初版は昭和39年(単行本は昭和32年刊)、購入したのは去年9月に増刷された116刷! これは、よほど読みやすく、面白みたっぷりなのかと期待してひもとくと、意外や全然読みやすくありません。三度目のビックリです。漢字だらけなのは漢文の時代ですから致し方ないようでもありますが、そればかりでなく、憶良の長歌を現代語に訳さないまま引いたり、たくさんの詳しい注釈がついていたり。

 注釈を飛ばして読むことができないタイプなので何度も引っかかってしまい、本文が進まないのにイライラしました。いらない注釈も大分ありそう。その上、読んでも読んでも小説に引き込まれないのです。まあ、長く、多くの人が支持しているのですから、これは私の方の問題でしょうか。

 ストーリーは史実がベースなので、そうそう勝手なことはできません。登場人物についても、私には主人公格の留学僧二人すら区別が難しかったのですが、ネット上の読者評で人物が書き分けられているのを褒める意見を散見しました。この国には勉強家の読者が数多くいて、この程度の「読みにくさ」はものともしないようです。このことには別に驚きません。

 ただ、読み方が違うと言えばそれまでではあるものの、何とか最後まで読み切ったので、少し書かせてもらいたいことがあります。度重なる苦難を経ても日本行きを諦めない鑒真がんじん(新潮文庫本の表記)の内側を描かなかったのは、明らかに作者の選択です。しかし、それはやはり困難を避けたものように見えてしまいます。

 現代人に理解できるように表現せよ、とは申しません。確かに書かずとも、その度重なる挫折を乗り越えるところに意図の宏大さは知れます。しかし、読み切っても釈然としない感覚が残ります。最も重要な人物の内側を、たとえ小さな蝋燭の灯のようにであろうとも、照らしてみせるのは小説家の仕事、義務なのではないでしょうか。

 同様に、母国とは桁違いの「大唐」に、恐らくさまようように入り込んだであろう主人公たちが、異国で感じたはずの異物感、彼我の圧倒的な距離から来る怖れについて書かないのは、小説家として手落ちと思われます。多言を費やさず、要所要所に、一行、二行でもいいのです。そうした人間の姿が見えて来ないのでは、本当の小説とは言えないのではないでしょうか。私は、登場人物を把握できず、小説の中に引き込まれることがなかったのは、そのためだと考えています。

 思わずきつい物言いになってしまいました。蟷螂の斧ですから、許してください。先日、同じ書店で新潮文庫の日本文学の棚をざっと見て回ったら、既に亡くなった作家の本が、井上靖だけでなく、藤沢周平や池波正太郎などの時代小説作家を中心に、現役の作家を圧倒するほどの領域を占めていることがわかりました。現役で縄張りを守っているのはミステリー系の作家でしょうか。

 三島由紀夫と夏目漱石はまだ生き残っていましたが、谷崎潤一郎や大江健三郎はだいぶ怪しい感じ。書店はシルバー産業に近づきつつあるのかもしれません。書店に若い人の姿が少ないのは悲しいことです。ごまめの歯ぎしりですが、何とかならないものかなあとしきりに思います。