月別アーカイブ: 2019年11月

旧約聖書を通読するには

前の投稿で予告した「旧約聖書の凄さ 番外編」です(予告の投稿自体は削除しました)。番外編も何回かの続きものになります。

旧約聖書を読み切ったのは良い経験だったと改めて思います。ページを繰るのももどかしいといった面白さとは対極にある本ですが、読書の楽しみの奥深さを再認識させてくれました。旧約に挑戦して、「創世記」「出エジプト記」までは読めても、続く「レビ記」「民数記」で断念する人が多いのだそうです。これを「レビ記・民数記の壁」と加藤隆氏は表現しています(『旧約聖書の誕生』)。

私もこの壁に阻まれて、何度か挫折しました。その後、壁を突破したものの「申命記」から「ヨシュア記」へと続いて現れる虐殺場面に気分が悪くなって、読み進められなくなりました(#24参照)。災い転じて福、ここで虐殺の記録について調べるために旧約関連本に何冊かあたったことで、通読への道が開けました。旧約は、それ一冊だけで読み通すのは難しい本だったのです。 続きを読む

旧約聖書の凄さ(8)  #59

彼方から呼ばわる声が聞こえた日の夜明け(適当)

旧約聖書は、弱小民族が過酷な歴史に翻弄される中、生き残りのために編んだ叡智の集成だった。旧約の凄さは、つまるところ、そこにある。ヤハウェ信仰につながる人々は、アッシリア、バビロニアによる侵略と捕囚、ペルシア、ローマ等による支配を受けつつも、旧約聖書を完成させ、ユダヤ人としてのまとまりを維持した。一方、たとえば彼らの国を滅ぼした大国アッシリア、バビロニアは歴史の流れの中で滅び去り、その後、民族集団としてのアッシリア人、バビロニア人は消滅してしまう。

旧約の中で、ユダヤ民族の生存戦略のイデオロギー的な側面が最も顕著に現れているのは、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルの三大預言書だろう。予言者たちは、敗残の同胞にこう語りかける――主は他国の神に敗れたのではない、主の他に神はいないのだから。我々を蹂躙した敵は、我々を罰するために振るわれる神の鞭なのだ。だから、支配者に対して抵抗するな、主は、我々が主との契約を破り、罪を犯したことを許しはしない。しかし、主は我々を見放さず、やがて救いの手をさしのべるだろう。

預言者たちは、自分たちの犯した罪と下される罰について熱弁を奮う。それが(短いとは言えない)預言書を通して執拗に続き、読んでいる私の脳内には濃霧が立ちこめて来るかのよう……だったのが、ある時一挙に展望が開けたことは前に述べた(#52)。旧約の罪と罰というテーマは、預言書以外の箇所では、物語化されたり、詩文化されたりしてある程度受容しやすくなっている。しかし、預言書はイデオロギー剥き出しなのである。そのため、預言書からは、はるか遠くで呼ばわる「声」が、聞き苦しいほどしわがれてはいるが真剣そのものである「声」が聞こえて来るのである。 続きを読む

旧約聖書の凄さ(7)  #58

バビロンの郊外電車 「神聖な牛」の塗装が施されている

信仰に篤く高潔なヨブは、罪もないのに家族や財産を全て失い、業病に苦しめられる。それでもなお忠実な神の僕であり続けられるのか……? ヨブ記の問いは旧約時代のユダヤ人に止まらない普遍性を持っていたため、幾多の哲学者や宗教者によって追究され、重要な文学作品を生み出すインスピレーションの源にもなった。とはいえ、ヨブの問いかけは、何よりバビロン捕囚以降の苦しみの中にあるユダヤ人にとって切実なものだった。

ヨブの不幸は、イスラエル北王国滅亡以降、ヤハウェ信仰の立て直しをはかって来た人々の悲運と見合っている。彼らは周囲の堕落した信仰のあり方を否定して、ユダ王国ヨシア王の元で宗教改革を行い、正しい戒律や依って立つべき民族の歴史を編もうとしていた。だが、そうした試みはバビロニアによる侵略で虚しくなった。異教徒が繁栄を謳歌する一方、ヤハウェ信仰につながる人々は、信心の薄い者も篤い者も等しなみに捕囚やディアスポラという悲運に苦しんだのである。篤信者の立場は、ヨブに相似と言える。彼らが捕囚下で旧約の基を築いたのだった。

ヨブ記は旧約聖書の中で、創世記と出エジプト記ほどではないにしろ、よく読まれている。私も今回二度目のはずだが、前回読了したのか怪しい。今回、ヨブが全てを失った上に重篤な皮膚病に苦しめられるところまでは順調だったけれど、友人による説得が始まると辛くなった。ヨブと友人三人はお互い一歩も譲らず、議論を続ける。まるで花いちもんめのようだ。子供の頃、外から見ても、参加しても、何が面白いのかさっぱり分からなかった、あの感じ。平行線のまま、延々と議論は続く。 続きを読む