シェイクスピア」カテゴリーアーカイブ

「再び恋に落ちたシェイクスピア」限定公開

シェイクスピア大明神に導かれるままに書いた「再び恋に落ちたシェイクスピア」、限定的に読んでもらえる手はないかと考えていました。そもそもは、映画続編のシノプシスを書いてみよう、それがブログ1回分のネタになればと思いつきから始まりました。

ところが着手すると、登場人物やストーリー、場面の細部が勝手に、次から次に浮かんで来て途切れることがありません。それらを懸命に書きとめる内、400字詰め原稿用紙換算で100枚弱、シナリオ第一稿のようなものができてしまいました。長すぎて、ブログには収まらないし、制作者の権利侵害の恐れはないにしても、レワニワ図書館の蔵書として少し変です。困っていたら、一つのアイデアが浮かびました。

この「続編」、シーンによっては場面としてどう成立させるかを詰めないまま進めました。シナリオの書き方はよく知らないのですが、それらしく各シーンに番号をふってあって、中のいくつかはラフの状態に留めています。たとえばシーン47では、重要な登場人物である少年少女(どちらも貴族の家系)が、シェイクスピアの芝居の稽古に出かけているのが家族にばれそうになったものの「何とか誤魔化す。二人は目配せして微笑む」と記しました。 続きを読む

How Did Shakespeare Read Don Quixote?

How Did Shakespeare Read Don Quixote? added to the Rewaniwa Library on April 29. Shakespeare was reading Don Quixote and writing a play. I explore how he read Don Quixote, with Hamlet as an intermediary. This essay originally appeared in the Winter 2021 issue of Mita Bungaku, the literary magazine from Keio University. Translated by Sam Malissa.

先月末、『シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?』英語版をレワニワ図書館に配架しました。シェイクスピアは「ドン・キホーテ」を読んで、一つの戯曲を作り出していました。シェイクスピアがセルバンテスをどう読んだのか、「ハムレット」を媒介として探っていきます。「三田文学」本年冬季号掲載。サム・マリッサ氏訳。

訳者についてはこちらをご覧ください(英文)。柴田元幸氏(英文学者/翻訳家/文芸誌編集長)に紹介していただきました。英語版は、執筆をめぐる個人的事情や用語の解説などを省いたので、少し短くなっています。訳された英文を読んだら、自分のものであるような、そうでないような不思議な気分になりました。 続きを読む

シェイクスピアの歴史劇

物忘れや変な思い込みがひどくなったと言うと、前からそうだったと妻に返されます。主観的にはこの数年の変化なのですが。『ハムレット』は、福田恆存訳(新潮文庫)を繰り返し5回くらい読んだと記憶していました。ところが、カルデニオ-ハムレット論を書くために小田島雄志訳(白水Uブックス)を買い、初めて読んだ気でいたら、後で同じ本が書棚の結構目立つ場所にあるのを発見しました。付箋つきで。

野島秀勝訳(岩波文庫)も、やはり付箋つきで書棚に収まっていました。さすがに、同じ訳ばかり5回も読んだわけではなさそうです。しかし、福田恆存訳を何度か読み返したのも事実です。その都度、前に読んだ記憶が消えているのに驚いたことをよく覚えています。シェイクスピアの凄さを毎回新鮮な気持ちで味わえるので記憶力が悪いと得だ、と強がっていたものでした。

先日、福田恆存訳『リチャード三世』(新潮文庫)を買いました。これもすでに家にありました……積ん読でしたが。英国王の名を冠したシェイクスピア史劇は縁が遠かったのです。今回、松岡和子訳『ヘンリー四世』(ちくま文庫シェイクスピア全集31)をひもとくと既視感がありました。その源は山口昌男、高橋康也などの著作に出て来たフォールスタッフに関する記憶の残滓のようです。読んでみて、史劇を敬遠していた理由がわかりました。 続きを読む

続・アカデミアの空白

歴史学や経営史学において、個々の人間像の探るような人物研究は過去に属するもののようです。さりながら、歴史学者が、専門とする時代の重要な人物について世間の人より知識が少ないということはまずないでしょう。過去の蓄積を摂取しているからです。ところが、岩崎彌太郎の場合、彌太郎や三菱に直接かかわる分野の専門家を除けば、私の新書の内容以上の知識を持つ学者はほぼいないはずです。

そう断言できるのは、『岩崎彌太郎 会社の創造』以外、史料に裏打ちされた「伝記」がないからです(私の本の後に出たものは未見)。専門家で書く材料を持つ人はいたのでしょうが、誰も手をつけませんでした。ライバル視される渋沢栄一の方は汗牛充棟の有様なのに。会社の歴史や会社員という存在の探究においても、私の『会社員とは何者か? 会社員小説をめぐって』に匹敵する論が、それ以前にあったようには見えません(ただし関連分野の、特に調査的な研究には、上掲書は多くを負っています)。

両書は、前回述べたアカデミアの空白の存在を指し示しています。私の関心領域は彌太郎からシェイクスピアまで出鱈目のようですが、空白域の探検という点で共通してもいます。ただし、空白域を意図的に捜したことは一度もなく、関心を抱いて探究をする内に各所で未踏の場所に至ったのです。偏頗も度が過ぎています。ただし、興味が満たされれば「素人」の分を超えて何か言ったりはしません。それにしても、空白域はなぜ様々な学問分野に存在するのでしょうか? 続きを読む

続・再び恋に落ちたシェイクスピア

キメラ的な『再び恋に落ちたシェイクスピア』、ほぼ完成しました。何という徒労! 2週間かけて、400字詰め換算96枚。短めの中編小説一本分(シナリオの第1稿のような形で、ややラフに書かれています)。前回記したように、使い途は恐らくありません。でも、途中でやめようとは一度も思いませんでした。暇の産物には違いないのですが、この2週間、何ものかに追い立てられているようでした。

何ものか。ミューズみたいな立派な神様ではなさそうです。ジーニーくらいか? シェイクスピア大明神ではなおさら畏れ多く。『再び恋に……』に登場するのは、映画の登場人物であったところのシェイクスピアであり、だからこそ実在の人物の名を勝手に使っても「良心の呵責」など感じなかったのでしょう。

執筆の合間には、徒労感に浸されて嫌になることもありました。しかし、いざPCに向かうと書く快楽に突き動かされるようで、思い煩うことはなかったのです。主な材料は、自家製カルデニオ-ハムレット論(→PDF直リン)、『二重の欺瞞』、『恋に落ちたシェイクスピア』。この三者をどう組み合わせるか全くのノープランでした。一行のメモすらなし。しかし取りかかれば次々に展開や場面、人物が勝手に登場して、執筆が滞ることはありませんでした。生来、筆の遅い性なのに、なぜ一気呵成に書けたのでしょうか? 続きを読む

再び恋に落ちたシェイクスピア

困ったことになりました。「恋に落ちたシェイクスピア」の勝手に作る続編「再び恋に落ちたシェイクスピア」を書き始めたら、止まらなくなったのです。プロットにいくつか科白や場面の説明を加えてシナリオ風にし、ブログ1回分にするのが最初の心づもりでした。それが長くなりそうなので、レワニワ図書館に加えてもいいかなと思い始めたものの、全く予想外の展開で、書けば書くほど科白や場面が湧き上がって来ます。

400字詰め換算で既に40枚を超え、このままだと100枚までは行かずとも、それに近くなるでしょう。これほど書いてしまうと、たとえこの人跡稀なサイトの無料コンテンツとはいえ、誰にもアクセス可能なので、たとえばレワニワ図書館に配架することははばかられます。贋作のドン・キホーテ続編みたいなものです。映画の内容が核として存在しているからです。

一方で、私の創作物であることも間違いありません。カルデニオ-ハムレット説という私の独自の論が最重要の核心となっているからです。使い道のないキメラができつつあります。今更やめることもできません。筆の勢いというものがあります。いずれ書き始める予定の小説の予行演習にはなりますが……。以下、現在最も新しい部分をアップしておきます。前後のシーンなどの説明は省略。 続きを読む

レワニワ閲覧室に新蔵書

セルバンテス/シェイクスピア

レワニワ図書館の閲覧室に、新蔵書『シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?』を配架しました。「三田文学」2021年冬季号掲載の同題のエッセイを一部手直しし、特別付録として「カルデニオ-ハムレット化計画」を付け加えたものです。本文の概要は、前回の当ブログの他、「レワニワ瓦版」の2月15日付けの記事中にも載せてあります(改行を除けば同じものです)。

シェイクスピアの<二重の欺瞞-カルデニオの物語>問題についてはとりあえず終了、今後は英訳版を掲載する予定があるのみです。ただし、余録として勝手に妄想した『恋に落ちたシェイクスピア』の続編のプロット(再び恋に落ちたシェイクスピア?)を、そのうちに投稿しようかと考えています。

ドン・キホーテとセルバンテスについては、とりあえず休止とします。再開するとしても、恐らく何年か先になるでしょう。読んだ本については、これからも書きたいことが見つかった時に書きます。予告してあった風土記の補遺も必ずやるつもりです。ただ、嬉しいことに、先日、2月12日に突然小説を書く目途が立ったので、すぐに執筆に取りかかることはないものの、こちらに徐々に重点を移していこうと思います。いや、驚きました……小説については、また改めて記します。

イベリア半島と大ブリテン島の間に

思い出せないと前回記した「シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?」の補遺に関して、一つ記憶の底から甦って来たことがあります。シェイクスピアとドン・キホーテについて、なぜ「釈迦に説法」の誹りを免れない口出しをしているのか、書くつもりだったのでした。

私は厚かましいタイプではないと自認しています(それが厚かましい?)。一方で、変なことを思いついてしまい、そうなると黙っていられない面もあります。両方ともこのブログで発揮されている思いますが、後者が優勢かもしれません。しかし、いくら思いついたからといって、上記の問題に関して、英文学、西文学の諸先生が丁々発止のやりとりをしていたなら、その舞台にしゃしゃり出ることはなかったでしょう。

しかし、状況はそのようではなかったのです。スペイン側から「二重の欺瞞-カルデニオ」問題へのアプローチは多分ありません。シェイクスピアの真筆かどうかの争いなら管轄外ですし、セルバンテスやドン・キホーテの研究に資するものではないと考えるのは当然です。外野としては、首を突っ込んでくれたら楽しそうに思えるのですが、アカデミア内部の人はそうした外部的な事象には関心を示さないでしょう。 続きを読む