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ここで風土記を思い出す  #17

フローベール「ボヴァリー夫人」に触れるのは、この文章を書き始めた当初の思惑にはなかったものの、小文の趣旨からして迂路ではない。しかし、こんな具合に、こちらの隙を突くように闖入して来られると応対に困る。まあ、あてもなく始めて、あちらこちらフラフラしながら書き続けているのだから、元々隙だらけではあったわけだが。

「ボヴァリー夫人」は、フランス語ができないから和訳ばかり、生島遼一訳で多分三度、山田𣝣訳、吉川泰久訳でも一度ずつ読んでいる。もう一回読めと命令されたなら、「喜んで!」と応じる。しかし、この先限りある人生、自発的にもう一度読むかと自問すると、できればそうしたい、くらいの答えになる。

「ボヴァリー夫人」は、私にとって現代小説の最高クラスの教師にして教科書のようなのだ。好きか? と再度自問すれば、答えはイエス。ただし、お気に入りの教師やテキストのように好きなのである(現実世界では、そんな教師や教科書に、残念ながら巡り会わなかったけれど)。作品への愛さえあるものの、恋愛ではなく尊敬の対象ということだ。

ストーリーの話から、登場人物の方に話が逸れてしまって早幾歳。風土記が何故気に入ったのか語ろうとして、こんな流れになった。ストーリー指向ではない、登場人物の魅力への感受性に欠けている、一方、一定の枠組みの中で小世界が造形される話は大好き。風土記は、そんな私には実によく合っていた。

別に天邪鬼で、世間と反対の方向に行こうとしたのではなかった(私が天邪鬼なのは確かだとしても)。ごく自然に記紀より風土記となったのである。全体を貫くストーリーに欠け、古事記の神々や英雄、日本書紀の多彩な貴人たちといった華のある「登場人物」が活躍することもない――そんな風土記に惹きつけられたのは、私の性向からすると不思議ではない。

なぜ「ドン・キホーテ」が面白いのかという問いに、この発見は関わりがありそうだ。「ドン・キホーテ」は一つの長編小説というより、様々な小世界のエピソードの集積なのである(特に前編)。行く先々で個別の「事件」に出遭う「ロード・ノベル」と言ってもいい。もちろん神も英雄も出て来ないし、キホーテとサンチョは、私には魅力的な登場人物というより面倒くさい旅の仲間みたいに感じられる。

しかし、これは「ドン・キホーテ」を面白いと感じるに至る必要条件でしかない。面白さの解明という目的地に向かって、さらに旅を続けよう。でも一直線にではなく、時々の興味に応じて回り道をしながら、その寄り道自体を喜びとしながら。

魅力的な登場人物について エンマとアンナ  #16

ここまで書いて来て、気づいたことがある――改めてなのか、初めてなのか判断がつかないのだが――私は、読者として、主人公であれ他の主要人物や脇役であれ、惚れこんだり、ファンになったりしたことが殆どない。作者としては、登場人物を魅力的に造形しようと真剣に考えた覚えがない。精々、読者が登場人物に味方してくれるように、筋書きや設定に多少の工夫をしたことがあるくらいだ。

作中人物の魅力について、後書きやら解説やら書評やらでたくさん読んでいるはずだが、そこに共感がないので、右から左に抜けて記憶に残らなかった。性格や行動や「思想」についての分析なら、興味を抱いたことがあったと思う。魅力的な登場人物といって私がまず思い起こすのは、アンナ・カレーニナを筆頭にトルストイやドストエフスキーの作中人物なのだが、筆頭格のアンナですら、深い共感や愛着を感じてはいなかった。魅力的に書かれているなと思った、と表現するのが近いと思う。

これは(最近になって理解するようになったのだけれど)、私自身、他者に共感する能力が低いことが影響しているだろう。この欠点に関しては、思い当たることやら考えることやら山ほどあって、それらは「ドン・キホーテは、なぜ面白いのか」問題とも関連がある可能性が高いのだが、この個人的な属性については深入りしない。ともあれ、私は、一般的な小説の読者を惹き付けるのに不可欠の要素であるストーリーと登場人物の魅力の双方に縁の薄い作者であったようなのだ。つまりは、物語作者じゃなかったということだ。知らなかった。

カレーニン夫人は当たり前のように魅力的なヒロインと称えられる。一方、フローベールの主人公エンマ・ボヴァリーをヒロインと称するのはためらわれる。彼女は、物語の女性主人公からヒロインとしての要素の殆どを抜き取った上で、彼女の読書遍歴とは無縁の近代小説の主人公にされてしまったように見える(魅力がないわけではないが、それが却って仇になるような書き方をされるという悲劇)。しかも主人公として登場したのが「不朽の名作」だったために、満天下、永遠の恥をかかされることことになったのである。作者に「ボヴァリー夫人は私だ」と自白してもらい、恥と罪を引き受けてくれなくては気の毒というものだ。

先を急ぎたいという以外の思惑はないまま、魅力的な主人公としてアンナの名を出し、夫人つながりで安易にボヴァリー夫人を呼び出したために、「ドン・キホーテ」への危険な急接近が起こってしまった。この男女二人の主人公がある意味で似たもの同士であることは、よく知られている。どちらも読んだ本を真に受けたばかりに実人生を毀損することになった主人公だ。しかし、そこは私の論点ではない。

似たもの同士の二人には、物語の子孫としての小説には不可欠の「魅力的な登場人物」の逆をいく共通点があることに気づく。両者とも作者に恥をかかされ、ひどい目に遭わされているのだ。他方アンナは不倫で身を持ち崩しながらも、作者の思惑を裏切って魅力たっぷりの女性主人公となり、作者を返り討ちにしている(彼女の裏切りは、作者の栄光であると評価されている。作者はアンナがどんなに魅力的であるかを知らなかったらしい)。セルバンテスもフローベールも、そしてトルストイも、作中に読者にとって魅力的な人物を登場させることを重要とは考えていなかったようだ。

人物として素直に好ましいのはエンマやキホーテではなく、ゲス不倫貴族であるカレーニン夫人だ。しかし私は、近代小説の信奉者として、作者によって全てを奪い去られたかわいそうなマダム・ボヴァリーに跪拝する。アンナにはダンスを申し込もう(断られるだろうから、ダンスができないことは問題にならない、はず)。……また、話がずれている。それでも折角だから二人の女性だけでなく、憂い顔の騎士にも挨拶をしておきたい。だが、私は、彼に対しては、どんな態度で、どんな風に言葉をかけるべきなのか分からないのだ。で、こんな文章を書き続けている。