フローベール「ボヴァリー夫人」に触れるのは、この文章を書き始めた当初の思惑にはなかったものの、小文の趣旨からして迂路ではない。しかし、こんな具合に、こちらの隙を突くように闖入して来られると応対に困る。まあ、あてもなく始めて、あちらこちらフラフラしながら書き続けているのだから、元々隙だらけではあったわけだが。
「ボヴァリー夫人」は、フランス語ができないから和訳ばかり、生島遼一訳で多分三度、山田𣝣訳、吉川泰久訳でも一度ずつ読んでいる。もう一回読めと命令されたなら、「喜んで!」と応じる。しかし、この先限りある人生、自発的にもう一度読むかと自問すると、できればそうしたい、くらいの答えになる。
「ボヴァリー夫人」は、私にとって現代小説の最高クラスの教師にして教科書のようなのだ。好きか? と再度自問すれば、答えはイエス。ただし、お気に入りの教師やテキストのように好きなのである(現実世界では、そんな教師や教科書に、残念ながら巡り会わなかったけれど)。作品への愛さえあるものの、恋愛ではなく尊敬の対象ということだ。
ストーリーの話から、登場人物の方に話が逸れてしまって早幾歳。風土記が何故気に入ったのか語ろうとして、こんな流れになった。ストーリー指向ではない、登場人物の魅力への感受性に欠けている、一方、一定の枠組みの中で小世界が造形される話は大好き。風土記は、そんな私には実によく合っていた。
別に天邪鬼で、世間と反対の方向に行こうとしたのではなかった(私が天邪鬼なのは確かだとしても)。ごく自然に記紀より風土記となったのである。全体を貫くストーリーに欠け、古事記の神々や英雄、日本書紀の多彩な貴人たちといった華のある「登場人物」が活躍することもない――そんな風土記に惹きつけられたのは、私の性向からすると不思議ではない。
なぜ「ドン・キホーテ」が面白いのかという問いに、この発見は関わりがありそうだ。「ドン・キホーテ」は一つの長編小説というより、様々な小世界のエピソードの集積なのである(特に前編)。行く先々で個別の「事件」に出遭う「ロード・ノベル」と言ってもいい。もちろん神も英雄も出て来ないし、キホーテとサンチョは、私には魅力的な登場人物というより面倒くさい旅の仲間みたいに感じられる。
しかし、これは「ドン・キホーテ」を面白いと感じるに至る必要条件でしかない。面白さの解明という目的地に向かって、さらに旅を続けよう。でも一直線にではなく、時々の興味に応じて回り道をしながら、その寄り道自体を喜びとしながら。