新しい小説を書くには?

 前回の更新から1ヶ月がたちました。そこで予告めいたことを書いたのですが、できそうにありません。頭の中が小説モードになって、ブログを書くことすら余事と化したかのよう……ですが、実際にはもう少し困った状況に陥っています。本格的に小説の準備を始めて間もなく、私の頭の中にある小説のプランを実現するには足りていないことがいくつもあると分かったのです。それも簡単でないことばかり。

 私の力量ではこの小説は書けそうにない、という怖れのような予感に打ちのめされ、数日の間、絶望しそうになっていました。その後、やりようがあるかもしれないと思い直すに至ったものの、意気揚々と出発する矢先に落馬した感じで、なかなか立ち直れませんでした。まだ十分には回復していませんが、こうして愚痴をこぼせるくらいには症状が軽くなったようです。

 新しい小説のプランの根幹は、このブログで扱った歴史上の人物を小説に取り込むことです。そうした前提で「その本は、なぜ面白いのか?」を書き始めたわけでは全くありませんが、同テーマによるブログの終了が目に見え始めるのと同時に、新しい小説の姿が湧水のように自然に浮かんで来たのでした。これで再び小説が書けると喜び勇みました。偽の悟りを開いたようなことだったわけですが。

 何が足りないのかと言えば、小説に登場させようとしている歴史上の(といっても実在とは限らない)人物や、彼らが生きた時代に関する知識の蓄積です。旧約聖書や常陸国風土記の書き手たち、粘土板に楔形文字を記す書記官やバビロニアの王家に嫁ぐ姫君、クセノポンらギリシア人傭兵、アレクサンドロス大王の東征に従う人々、ヘロドトスやアウグスティヌス、もしかするとシェイクスピアとセルバンテス、岩崎彌太郎も? 

 そうした人物たちを因果の糸で結んでストーリーにしようと考えるほど無謀ではありませんが、一方で、彼らの生きる姿を現代人(私?)の視野の中でいきいきと、一枚の絵となるように描こうとするほどには野心的なのです。なのに、上記の中の殆どについて、私が自分の文章で描けるほど十分には把握していないことに突然気づいたのでした。ブログに書いて恥ずかしくない程度には付き合ったつもりですが、私が小説で実現したいと考える水準で描くにはまるで足りていませんでした。

 彼らを小説中の人物にするには、集めた資料の山を掘り返し、さらに新しい資料を見つけて読み込んでいく必要がありそうです。できるのか? この疑問が思い浮かぶや否や、無理という答えが出ました。私は面白く読めるギリギリのところで、歯ごたえがある書物を求めてさまよっていました。読めない文字で書かれた物語や詩を理解できるという驚きと喜び。知らないことを知り、同時に知らないことの中に知っていることを発見する面白さに魅せられたのです。

 そこまでなら、専門家の助けを借りて到達できました。しかし、それは小説にするのとは別の次元だったのです。浮かんで来たプランは、冷静になってみると馴染みのない時代と人物たちを自分の文章によって生かすことでした。それは不可能というのは理性的な判断です。絶望するしかありません。が、どうにか立ち直ることができました。プランは捨てません。では、どうやって無理を無理でなくするのか?

 もう一度資料を読むこと。覚悟を決めて。愚直に、という言葉は好きではありませんが、それ以外に道はなさそうです。そう決めると、積み上がっていくであろう資料の山が勝手に脳裏に浮かんで来て、その膨大さに再度絶望しそうになります。でも、大丈夫。進んで行けます。

 論考系のエッセイや歴史小説を書くのではないのです。全ての事項について十全である必要はありません。資料を読む内に、私の望む小説のレベルに達する足がかりとなる何かを発見できればいいのです。断片で構いません。そうしたきっかけは、恐らく向こうから姿を現すはずです。新しい小説が書くに値するものであるならば。そのことに思い至って、私は立ち直ることができたのでした。

 こうして、生来の怠惰癖のせいで資料を読んでいる内に寿命が来るかもしれない、という恐れを取りあえず克服し、資料に分け入る覚悟ができました。ところで、このブログの発端であるドン・キホーテに関して、キーとなる本の和訳が去年出ていたことを知りました。常軌を逸した値段と厚さ。一冊で小山のようなのですが、それが二冊。これについて、次回に書きます。たぶん。