月別アーカイブ: 2021年7月

風土記のために万葉集に寄り道  #74

ようやく風土記の補遺の続きを書くことができる。セルバンテス-シェイクスピアの時ほど態勢を整えたわけではないが、深入りすれば切りがないので準備はここまでとする(補遺と言うには長いので、別のタイトルをつけることにした)。そう決めた後、先日補遺の続きを断念することになった理由が腑に落ちた。私は「作者」について調べた上で、関連する歌や漢詩にあたればそれですむと思っていた。しかし、別の難問が水面下に隠れていて、そこで座礁したのだった。

作品の鑑賞という問題が、私には見えていなかった。好みを言うだけなら、どう読もうと勝手だろうが、私は常陸国風土記の特別な長所について述べたいのである。となると、その「作者」候補者の位置づけや 、彼らの作品がどう読まれて来たかについて、ある程度は押さえておく必要がある。遠い昔に書かれたものを読み、楽しむことで、私はこれまで概ね満足していたのだった。

しかし、補遺で解こうとした問題は、こうした無為の楽園から一歩踏み出さずには解決できないものだった。となると、高橋虫麻呂や春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆの歌が採られた万葉集の全体と取り組む必要があるのだろうか? そうすべきかもしれないが、短歌と縁が薄い私には難しい。そこで、ハムレット論に深入りする代わりにスティーヴン・グリーンブラットを案内役としたように、万葉集についてもガイドを立てて導いてもらうことにした。 続きを読む

風土記の神様は手強い?

2度目のワクチン接種で発熱する気満々だったものの、腕の痛みすら1度目より軽く、副反応が出にくいという老人男性の通例通りに……ちょっとガッカリ、なんて言っては不謹慎でしょうか。自衛隊さん、ありがとう。一方、常陸国風土記関係では、自戒していたのに「作者」をめぐる文献の泥沼に片足だが突っこんでしまい、ちょっと書きにくい感じになってしまいました。

……と、この後を続けようとしたら、なぜか途中でうまく進まなくなり、何度書き直しても満足のいく出来になりません。やむを得ず中断することに決めました。材料も、構想も、ちょうどいい塩梅に整っていて書けないはずがないのに、うまく行かないのです。シェイクスピアの時には大明神が自発的に降りて来てくれて、私の思惑を超えた「作品」ができたのですが……。

風土記の神様は手強いようです。前にも、こんなことがあったなあ、と思い出したのは、『アレキサンダー大王東征記』についてどうしてもうまく書けず、とうとう断念したことでした。ただ、『東征記』はできれば書いておきたいくらいだったのに対し、風土記はこのブログの大事なテーマの一つですから、諦めるわけにいきません。深入りせずに書こうなどという半端な姿勢が良くなかったのかもしれません。これから、可能な限りでですが文献を読み、風土記の続きは7月最終週にアップすることを目指したいと思います。

常陸国風土記の詩想 風土記補遺(3)   #73

常陸国風土記には風土記の文学としての魅力が凝縮されている。冒頭、倭武天皇が沸き出したばかりの泉水に指をひたす美しい場面(#3)は、その魅力を象徴するものだ。ただし、こんなことを言っているのは私だけかもしれない。専門家の世界に闖入して迷子になるのは懲りたので、網羅的に文献をあさることはしていないけれど。

学者にも風土記を好きだと語る人はいて、たとえば坂本太郎氏の随想(*1)を読むと、資料を揃えること自体が難しかった時代から研究を深めていった真摯な姿勢に圧倒され、やがて氏の風土記への愛の深さに感動する。しかし他の多くの人は、古代の歴史、文学や民俗を研究する際、メインストリームの古事記や日本書紀にない材料や視角を与えてくれることが風土記への好意の理由のようだ。風土記そのものは愛の対象ではないのだ(#3)。

前回の予告で触れた折口信夫の風土記をめぐる論は、講演や大学での講義をベースとしたものが多い。概して、風土記自体への関心より、古代の文学や民俗を論じるのに必要なので触れたという印象を受ける。そうした中、歌人釈迢空でもある折口が常陸国風土記について、わざわざ「つまらぬもの」と記したのはやはり気になる。 続きを読む