「アナバシス」は戦記なので、指導者についても当然触れられる。ある時、ギリシア傭兵隊の指揮官クレアルコスは、ペルシアの将軍ティッサペルネスの陣地に招かれる。これは奸計で、訪れたクレアルコスらはそこで処刑されてしまう。殺されたクレアルコスらについて作者クセノポンの記した人物スケッチが興味深い。
総指揮官であるスパルタ人クレアルコスは、無類の戦争好きだった。軍隊の指揮官として抜群の資質を持ち、特に物資や糧食の調達に長けていた(ただし注釈には、激しい徴発で女子供を餓死に追い込んだとある)。常に峻厳、苛烈だったが、戦場で敵に対する時には力強く非常に頼もしかったので、部下たちは彼の指揮に全面的に従った。だが、粗野で人を惹きつける魅力がなく、戦場での危機を脱するや否や、部下たちはたちまち他の指揮官の元に走った。「彼は親愛の情や好意をもって従う部下を持つことは嘗てなかった」
テッサリア出身の指揮官メノンの部下たちは、クレアルコスを殺そうしたことがあった。しかし、その咎を許されて以降もメノンはクレアルコスに従っていた。しかし、ペルシア陣営行きに同行したのは、クレアルコスを裏切って一人だけ助かるためだった。
メノンは「率直や正直は馬鹿と同義語だと考えていた」「警戒している敵から財物を取るのは難しい」ので、無警戒の味方から持ち物を奪うのを上策とした。誓約を破り悪事を働く人間は「手剛い相手だとして恐れ、敬虔で真実を守る人間は腰抜けとして扱う」「メノンは人を騙す能力とか、嘘を捏造したり、友人を嘲笑したりすることを自慢していた。平気でどんなことでも出来る人間でなければ、半人前だというのが彼の考え方であった」ペルシア陣営において、他のギリシア人は一瞬で命を奪う斬首刑に処されたが、メノンだけはこうした卑劣さの故に敵からも憎まれ、「悪人として残虐な扱いの下に一年間生き延びた後、死んだ」
クセノポン自身についても、もちろん多くの記述がなされている。敵に内通したとの誤解から、味方の兵たちに石打ちの刑に処せられそうになった時、彼が見事な演説をして説得する部分は、作中のクライマックスの一つである。だが、私が「耳折り」した中に、作者自身に関する部分は意外に少なかった。古来、クセノポンについて、名文家だが自己正当化や言い訳が多いという評があったらしい。私はそう感じたわけではないが、先のスケッチに示したような鋭い評言を自分自身に向けるのは(当然のことだが)難しいし、そんな気は作者にはなかっただろう。下記は、私が耳を折った「作中人物クセノポン」の兵を前にしての演説の一部。
「戦いにおいて勝利をもたらすものは、兵の数でも力でもない。一方が神助を得て相手に勝る旺盛な士気をもって敵に向かえば、大抵の場合他方はこれを迎え撃つことができぬ……戦いにおいて何としてでも生き永らえようと望む者は、大抵は見苦しく悲惨な最期を遂げる……それに反して死は万人共通で逃れ難いものと悟り、ひたすら見事な最期を遂げんことを志す者は、何故かむしろ長寿に恵まれ、存世中も他の者より仕合わせな生活を送るのを私は見てきている」
戦場の逆説、あるいはむしろ「戦場あるある」だろうか? この演説には、クレアルコス亡き後の総指揮官ケイリソポスの絶賛の言葉が添えられる。もしクセノポンが現代日本に生きていたなら、ベストセラーを書いた上に、弁も立つのでメディアで活躍できそうだ。但し、一部からはネトウヨ、レイシストと非難され、やがて言葉尻を捉えられたり、直言を失言と決めつけられてたりして、一線から退場させられる……というところまで想像できる。アテナイ人クセノポンはソクラテスの晩年の弟子でもあったが、スパルタびいきでアテナイに弓を引いたこともあり、裏切り者としてアテナイ追放後ついに故郷に帰ることはなかった。
「アナバシス」で最も印象に残るのは戦闘シーンではなく、苦難の退却行である。敵の来襲を防ぎつつ、一万余の軍勢の糧食を整え(道中、敵対する集落を略奪したことが書かれている)、メソポタミアの熱暑の下で戦っていた軍勢が、全く想定外だったであろう進路、現在のイラン西部からアルメニア南部を通り、酷寒の中を黒海に向かって行軍することになった。一行は、山岳地帯で雪に見舞われる。
「兵士のうち村まで歩き通すことのできなかった者たちは、食事もとらず火の気もなしで夜を過ごし、ここで幾人かの兵士が死んだ……雪のために眼の見えぬようになった者や、寒さで足指を失った兵士たちは落伍していった……夜は穿物(はきもの)を脱ぐのが良策であった。靴を穿いたままで眠る者は、靴紐が足の肉に食い込み、靴が足に凍り付いてしまう」兵たちは革製のサンダルのような履物で雪中を行軍していたようだ。かくして「落伍兵たちは、自分たちはもう歩けぬのであるから、むしろ殺してくれ、と言った」という地獄絵図となる。