渋沢栄一と岩崎弥太郎のいわゆる「隅田川会談」は、四男の渋沢秀雄が著した1の文章から広まったもの思われる。その原本となったのは栄一が残した4の談話で、2と3は秀雄は見ていないように見える。これらの資料について、近々noteに解説を記す予定。
1.1959年刊 渋沢秀雄『父 渋沢栄一』
(前略)明治十一年の八月に岩崎弥太郎から招待を受けた。岩崎は後の三菱財閥の創始者である。
そしてその招待は、栄一が柳橋の花柳街であそんでいるところへきた。(中略)岩崎に呼ばれても気はすすまなかった。気心の知れない人の御馳走酒より、自前の遊びのほうが面白いにきまっている。
しかし岩崎からは矢の催促だ。向島の柏屋に舟遊びの用意をしてお待ち申していますから、ぜひお出で下さいという口上である。そこで栄一も重い腰をあげた。(中略)
岩崎は栄一を喜び迎えた。主客は岩崎と栄一の二人だけなのに、芸者が十四、五人も呼んであった。大がかりな歓待である。一座はすぐ屋根舟で川へ出た。(中略)
さて柏屋に引き上げてから、岩崎は栄一に用談を切りだした。栄一の三十九歳に対して六つ年上だった岩崎は、すでに海運業の先駆者として巨富を擁していた。台湾征討や西南戦争が事業に幸したのである。彼はまず栄一にさりげなくたずねた。
「これからの実業はどうして経営してゆくのがよいだろう?」
むろん栄一は持論の「合本法」を持ちだした。事業は国利民福を目標とすべきものだから、大衆の資金を集めてうまく運営し、利益を衆に帰さなければならないという説だ。すると岩崎はこの四角四面な理屈に反対した。合本法などは、いわゆる船頭多くして船山へ登るの類だ。事業は才腕ある人物が専制的に経営しない限り、うまくゆくものではない、というのである。そこで栄一は、才腕ある人物に経営を委託するのは当然だが、その経営者がいつまでも事業や利益を独占するのは間違っていると反対した。しかし岩崎はそれを理想論に過ぎないといって、飽くまでも専制主義的な独占論を主張したあげく、栄一にこう呼びかけてきた。
「キミとボクが堅く手を握り合って仕事をすれば、日本の実業界は二人の思う通りになる。そこを見こんで今日キミに来てもらったのだ。堅苦しい理屈は抜きにして、これから何事も二人協力してやろうじゃないか」
栄一は岩崎の真意が自分の所信と対蹠的なのを知って、一層激しく反対した。同時に岩崎も栄一の説をネジ伏せようと力説する。とうとう二人は猛烈な論争を始めたので、一座もシラケわたった。と、栄一は突然席を立って、そこに居合わせた馴染の芸者に目くばせすると、そのままいっしょに柏屋を出てしまった。あとでそれと知った岩崎が、栄一の失礼な「ドロン」に腹を立てたことは言うまでもない。
これがもとで岩崎と栄一の間には長い反目がつづいた。ただし岩崎のほうが立腹の度は強かった。なぜなら彼は意中の栄一を口説いて、ものの見事にビジテツを食ったからである。
底本は『父 渋沢栄一 新版』2019年。初版・新版とも実業之日本社刊。
2.大正5年「渋沢男爵閣下喜寿祝賀会報告書」
当初の見手本たる第一銀行も、追々に手足は伸びかゝりましたけれども、其後に至りて個人主義と合本主義との衝突とでも申しませうか、故岩崎弥太郎氏の一派と私の流義とが事々物々に意見を異にした、先方では渋沢の空想なる理窟を以て会社組織を主張しても到底旨く行けるものではない、寧ろ個人主義で事業の改進を努むるのが必要であると云ふことを、或る時には説得的に談話されたこともあつたけれども、私はそれは間違つて居ると思つたから、応じなかつた、其為めでもあらうか明治十二、三年頃からは自然と相反目するの有様を強くして、第一銀行は其頃実力も少く基礎も不鞏固の場合であつたからして、為めに幾多の迷惑を受けたのであります、
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 2部 実業・経済 1章 金融 1節 銀行 1款 株式会社第一銀行
3.大正6年「実験論語処世談」
岩崎は専権邁進の人
私は、弥太郎の何んでも自分が独りだけでやるといふ主義に反対であつたものだから、自然と万事に意見が合はなかつたのであるが、明治六年に私が官途を廃めてから、弥太郎は私とも交際して置きたいとの事で、松浦といふ人が紹介し、態々当時私の居住して居つた兜町の宅へ訪ねて来られたのである。在官中には交際した事も無かつたが、それ以来交際するやうになつたのだ。然し、根本に於て、弥太郎と私とは意見が全く違ひ、私は合本組織を主張し、弥太郎は独占主義を主張し、その間に非常な間隔があつたので、遂に其れが原因になり、明治十二三年以来、激しい確執を両人の間に生ずるに至つたのである。(中略)
それでも私は個人として別に弥太郎を憎く思つてたのでも何んでも無いのだが、善い事につけ悪るい事につけ、始終私の友達であつた、益田孝、大倉喜八郎[、]渋沢喜作などが共に猛烈な岩崎反対家で、岩崎は何んでも利益を自分一人で壟断しやうとするから怪しからんと意気巻いて騒ぎ立て、甚く弥太郎を憎がつてたものだから、私を其の仲間の棟梁ででもあるかの如くに思ひ違へ、弥太郎は非常に私を憎んでたものである。その結果は私と弥太郎とは明治十三年以来、全く離ればなれになつて終ひ、遂に仲直りもせず、弥太郎は十八年に五十二歳を一期として死んで終つたのである。
デジタル版「実験論語処世談」[26a](補遺)。『実業之世界』実業之世界社1917年
4.大正15年「雨夜譚会談話筆記」第四回
(三)第一銀行経営の端緒に就て
雨夜譚会 第四回
三菱の方は岩崎弥太郎氏が私の主張する会社組織は駄目だぞと云ひ、自分と二人でやれば日本の実業の事は何事でもやれると共同を申込んで来た。或る時岩崎氏からお目にかゝり度い、舟遊びの用意がしてあるからと云つて来た。私は増田屋へ行つて居り、早速行かずに居ると度々使を寄すので岩崎の居る柏屋へ行くと芸者を十四五人も呼んで居る。二人で舟を出し網打などをした処、岩崎氏は「実は少し話し度いことがあるのだが、これからの実業はどうしたらよいだらうか」と云ふので、私は「当然、合本法でやらねばならぬ、今のやうではいけない」と云つた。それに対し岩崎氏は「合本法は成立せぬ。も少し専制主義で個人でやる必要がある」と唱へ、大体論として「合本法がよい」「いや合本法は悪い」と論じ合ひ、はては結末がつかぬので、私は芸者を伴れて引上げた。
敬三。それでは、岩崎弥太郎さんとは大激論をやつて険悪になつたと云ふ程ではないのですね。
先生。険悪になつたのではない。双方考が違ふのだ。各長ずる処でやらうと云ふ程度であつた。向ふは私を説得する積であつたらしいのであるが、説得出来なかつたから、ひどいと云つて怒つて居たとか云ふことであつた。
大正15年12月11日。於飛鳥山邸。 デジタル版『渋沢栄一伝記資料』










