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歴史と政治と日本書紀 日本書紀(4)  #22

現代日本で日本書紀にネガティヴな視線が向けられる由縁は、岩波古典体系『書紀 下』解説から引けば「皇室の日本統治を正当化する政治目的を以て作為された」ことにあるようだ。同解説によれば、記紀の内容が国民に広く知られるようになったのは明治期以降で、義務教育以前には知る人は限られていたのだそうだ。明治以降の公教育において、記紀の神話的な部分も歴史的記述も、「正史」として教えられることになった。

第二次大戦前の国史や公教育は、敗戦後には皇国史観、皇民教育として全面否定されることになる。上記引用的な見方は、神話教育、任那日本府の存否、聖徳太子の呼び方など、歴史や歴史教育が何かと問題とされる際の批判の根底に存在し続けた。朝廷の日本統治を「正当化」することは、戦後日本では基本的に許されなくなったのだ。このコードは公に規則化されたわけではないが、教育の現場や歴史学などの学問の世界で、多くのインサイダーの了解事項として明に暗に共有されて来た。今も基本的に変わらない。

戦前的なるものへの否定的見方は、上記インサイダーだけでなく国民に広く浸透している。日本の戦後の言論界を支配したメディアの主流が「進歩派」だった影響が大きいだろう。朝日新聞と朝日系週刊誌(「週刊」と「ジャーナル」)と赤旗で育ったような私も(父親が共産党シンパだった)、そうした一人だった。大人になるまで殆ど神社を参拝したことがなく、長らく記紀を軽視して読まなかったのも、その影響があると思う。時が経ち、そうした傾きから脱却した後に初めて記紀を読んだら、ずいぶん沢山の鱗が目から落ちたのだった。

剥がれ落ちた鱗の一枚は、書紀の後半に、天皇が古代朝鮮半島南部の諸国に対して宗主としてふるまう記述が詳細かつ大量にあったことだ。天皇が朝鮮半島の国々から調みつきを受けたという記述があるなんて、私は全く知らなかった。その内容に疑義をはさみたい向きがあるのだろうが、記述があること自体は事実であり、なにがしかの情報は私の耳目に届いても良いはずだ。私が無知なだけとは、到底思えない。そうした記述は専門家以外には隠蔽されて来たに等しい。

誰も隠していない、書紀のどの刊本にも出ている、と反論されそうだが、全文を読む人が少ないことは分かりきった話で、専門家が一般の人に向かって語らないのは事実上の隠蔽だ、と私は思うである。後述するが、同じようなことは旧約聖書においても生じている(ただし隠蔽の方向性が正反対なのだが、このことについても後述)。

学問としての歴史学が誕生する以前に、歴史を客観的に記述する歴史書は存在しただろうか? 王朝が替われば、前の治政をぼろくそにやっつけて自己正当化するのが、中国などにおける歴史書のあり方だったのではないか(今もそうかも。否定の対象は中国の前政権<日本であるが)。歴史家はそれを道徳的に非難するのではなく、その偏向を分かった上で、歴史書の記述から真実を取り出すのが仕事のはずだ。

しかし、記紀となると(特に書紀は)、「皇室の日本統治を正当化する政治目的を以て作為された」ことで史書としての価値が低いと難じられ、時には政治的な非難を受けるのである。千三百年の時を隔てて、現在なお批判の対象となるとは驚くべきことだ。

そもそも歴史を政治と切り離すことは難しい上に、日本には固有の事情がある。皇室は支配者としての地位を失った後も滅ぼされることはなく、時の統治者に正当性を与える権威であり続けた。幕末から明治維新にかけてこの権威は極大化し、やがて憲法に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と記されることになる。

しかも、敗戦後、支配者が交替して明治憲法は否定されたが、天皇の権威は生き続け、新憲法において天皇は国民統合の象徴とされた。この天皇の特別の地位を正当化するのは、煎じ詰めると天皇家が特別の家系であること、「万世一系」に帰着する。そして、日本書紀は、「天皇制」の源泉であるとみなされ、今もなお否定の対象とされているのである。三浦佑之氏も「万世一系」の否定に熱心だ。

ともあれ、古事記と日本書紀という二つの歴史書があることで、私たちは日本の古代史を立体視し、様々な議論ができる。さらに、風土記という三角点もある。改めて思う、何と素晴らしいことか。そもそも、八世紀初頭に成立した歴史書が残されていることが嬉しい。もしそれらが書かれなかったなら、あるいは残されなかったら……。

たとえ時の権力者に都合の良く書かれたのだとしても、私たちは権力者や執筆者の意図を超えて読むことができる。土蜘蛛などと呼ぶ先住民を攻め滅ぼしたことが誇らしげに語られるが、今となっては血生臭い殺戮であり、征服戦争であると読み取られてしまう。書かれて残されたからこそ、そうした読み方ができるのだ。ここで、「ドン・キホーテ」からまた離れてしまうようだが、書き残された血生臭い殺戮、征服戦争をめぐる考察に少し寄り道する。

外国語で書かれた正史 日本書紀(3)  #21

渡来人や帰化人が共同執筆に参加できたのは、そもそも日本書紀がそうした出自の人々と当時の日本人にとって共通の文章語である「中国語」が用いられたからだった。中国語として完成度の高い部分は外国人が、そうでない部分は日本人が書いたのだとされ、日本語訛りの漢文を「倭臭」と評するのだとか。日本人自らこの語を使っているのだから、これこそいかにも日本人らしい自虐だ。いつ頃できた語なのだろうか?

一方、古事記は、岩波古典文學体系『古事記』解説から引けば、「漢字の語序を破ったり、助詞や助動詞や敬譲語をあらわす文字を補ったりし」た「変則の漢文」で記されていた。その解説では、太安万侶が「漢字による国語の表記に異常な苦心を払い、漢字の音と訓とを適当に塩梅し」て造り出したとされている。実際には、こうした日本語表記は古事記編纂の時代には既に使われていたものらしい。それでも、古事記が書くにあたって大変な苦労を要したであろう「生成過程の日本語の文章」で記されたのは事実だ。かたや書紀は、当時のインテリには馴染みの言葉である中国語が基礎となっている。そうした執筆者たちの姿勢が、太安万侶のそれよりも明るく、軽く見えたとしても不思議ではない。

おまけに記紀の執筆者たちは、外国語のフィルターを通すことで、外国人のような視線で自国の歴史を見ることができた。彼らは、日本という湿った土地から浮遊しつつ、自国の歴史と対面していたのである。このことも私が書紀を初めて読んで受けた明るく、軽い印象につながっているはずだ。唐突なようだが、村上春樹が、処女作「風の歌を聴け」の冒頭を英語で書くことで、(かつて多くは悪口として軽いと評せられた)その文体を獲得したことを思い起こす。

クンデラやナボコフも、亡命という軽くも明るくもない経験を経ているので村上と同列には置きにくいが、それぞれ生得の言語ではないフランス語や英語を用いて作品を著しており、彼らの書く文章において、軽やかなユーモアはその特徴の一つである。「母国語」から引き剥がされる苦渋の一方には、母国語の拘束から逃れる解放感もあっただろうか……苦渋の深さとは較べられないとしても(勿論、並の人間には及びも付かない頭脳の働きや語学力があってこそなのだが)。そう言えば、書紀の執筆者には、朝鮮半島からの「亡命者」やその子孫が含まれていたとされる。

何を書き表そうとしても日本語では難しく、外国語を使うしかない時代があったのだ。太安万侶をはじめ先人たちのおかげで、私ごときもこうして楽々と(?)文章を綴ることができる。世界には、母国語で文章を綴ることができない、あるいは母国語が文章を書く際の第一の選択肢とならない国がいくらもある。日本人は幸運なのだ。

文章語としての日本語が形成され、継承されていくという幸運の系譜の初っぱなに古事記は位置している。そして、古事記は長い間、唯一「日本語」で綴られた歴史書だった(それを本当の日本語の文章と言っていいのかは別として)。なのに重苦しいだの暗いだのと語るのは、悪口ではないつもりだが、失礼な気はする。

古事記は、しがらみだらけの「母国語」の世界の中で書かれているからこそ重苦しいのだ。前に使った比喩を引っ張り出すなら、天蓋が低い。内側に描かれた絵は暗く、禍々しく、「倭臭いなかくさい」。平安以降の読書階級が古事記に目を向けなかったのは、それが田舎染みてヘンテコな言葉で書かれた過去の遺物だったせいもあるのではなかろうか。

また、現在、出雲王朝の存在の大きさを示していることなどから、古事記が贔屓にされることが多いが(書店に並ぶ日本書紀関係本の少ないこと!)、征服された諸部族にとっては書紀と選ぶところはないと思える……どうも、古事記に対してはネガティヴな言葉が出て来てしまう。田舎から都会に出て来た人間である私は、「倭臭」をうまく相対化できず、思わず否定したくなるのかもしれない。おや、記紀で4回書いてしまった。次回で終わりますように。

日本書紀のポリフォニー 日本書紀(2)  #20

日本書紀の中に「『平民』の姿が一瞬だが垣間見える」理由について、#6を書いた後になって、岩波古典文學体系の解説にヒントがあるのを発見した。書紀には、「地方諸国の名もない人々の間に伝えられたもの」が記録され、「何らかのルートによって書紀編修の史局に集められた」と考えられるケースがあるようなのだ。「名もない人々」って、名前はたいてい誰にもあったんじゃないの? と突っ込みたくなるが、これは史書の上で無名ということであって、このブログ中で私が「平民」と書き、記紀で「百姓おおみたから」と記すのとほぼ同じ意味だろう。

この歳まで読む機会のなかった書紀に触れて、最初に驚いたのは「一書あるふみに曰く」として、本文の後に異聞がいくつも書き連ねられていたことだ。「正史」の中で正典を相対化してしまうとは、何という大胆なポスト・モダン、ポリフォニック(多声的)! と頓珍漢な驚き方をしてしまった。本当に不勉強で御免なさいですが、こうした書き方は、素人の私が知らないだけで、古い史書のありようの一つなのか、書紀に固有あるいはごく珍しい例なのか、判断できない。ちなみに、「一書に曰く」は、巻第三(神武天皇)以降、書紀から殆ど消えてしまう。

先に書いたとおり、私には書紀が明るく、軽いと感じられたのだが、風通しの良いポリフォニックな構成はその理由の一つになっている。また書紀に「地方諸国の名もない人々の間に伝えられたもの」が記録されたことも、多声的な構成要素の一つと言える。重ねて無知を恥じつつ記すのだが、上記解説によれば、書紀はその文体によっていくつかに区分することができ、それぞれ違った作者グループによって書かれたと推測されているのだそうだ。「一書に曰く」と書きつけた「書紀のポスト・モダン派」は、巻第三以降、少なくとも大きな関与はしていなかったことになる。

いくつかのグループ、多数の執筆者によって書かれたことが、書紀の内容にどう関わるのかは私には分からない。また今は関心の対象ではない。ただ、共同執筆が明るさ、軽さの一因であることは確かなようだ。古事記が重苦しく、暗い印象なのは(それは別に欠点ではない)、読者が稗田阿礼と太安万侶の造り出した世界から外に出られないことが作用していると思うのである(同時に、このように対比できる二つの史書があるというのは、何と興味深いことか、と改めてしみじみする)。

書紀の共働執筆者には、渡来人や帰化人が含まれているとされる。インテリ同士の共同作業となれば何かと争いや葛藤が起こりそうなものだが、私にはそんな痕跡は見つけられない。あっけらかんとドライな感触の史書を読んだという印象だ。いや、中身は殺戮やら裏切りやら大変なことが一杯だし、「万世一系の天皇制イデオロギー批判」の視点で読む人には、書紀こそが暗く、閉鎖的ということになるのかもしれないが。……イデオロギーの話はやめておく。迂路ではなく迷路に入り込みそうだ。実はこの辺のことを10行ほど書いて迷宮入りを予感し、カットすることにした。なので、この章は、ここで終わり。

日本人になる寸前の人々を目撃する 日本書紀(1)  #19

#6に、古事記でなく日本書紀に「『平民』の姿が一瞬だが垣間見える」と書いた。記紀では、貴人ならざる人々は「百姓おおみたから」と呼ばれているらしい(多くは農民だろう)。しかし、書紀においても、「百姓」は殆ど姿を現すことがない。せいぜい彼らの煮炊きする煙が目撃されるくらいのものである。

では貴人ならざる者である「平民」が書紀に登場するのは、どのような時だろうか? そうした記述は、いずれも被征服民への言及においてなされる。平民は、古代日本の正史には、被征服民が不可視の「百姓」になる前に「目撃」された場合にのみ、その姿を記録として残されたようなのだ。

いくつかの例を、書紀から引く。最初は、有名な海幸彦・山幸彦の話(神代・下)である。兄海幸彦が弟山幸彦のいきほひ(海神に与えられた呪力)に降参した時のこと。

「兄はフンドシをして、赤土を手のひらに塗り額に塗り……『私はこの通り身を汚した。永久にあなたのための俳優わざおぎになろう』……足をあげて踏みならし……苦しそうな真似をした。始め潮がさして足を浸してきたときに、爪先立ちをした。膝についたときには、足をあげた。股についたときには走り回った。腰についたときには、腰をなで回した。脇に届いたときには手を胸におき、首に届いたときには、手を上げてひらひらさせた。それから今に至るまで、その子孫の隼人たちは、この所作をやめることがない」

海幸彦・山幸彦の話は、隼人と呼ばれる人々の起源神話になっているわけだが、私の目は、そのいでたちや身振りに惹きつけられる。細密かつユーモラスな表現によって、古代九州南部の人々の姿を「映像」として見ることができるのである。「蛮族」を見下げる視線が現代人には気になるが、時代の制約なので致し方ない。また「俳優」とは何なのか、その仕事、身分の成り立ちについても考えてみたくなる。

隼人は、征服された後、天皇のそばで警護する役割を担い、犬の鳴き声を出す「吠声(はいせい)」という儀礼を行った。中村明藏鹿児島国際大学院講師によれば、吠声は次第に衰微し、「室町時代には……『延喜式』に 記述されているような隼人の吠声は廃絶していたようである」http://www5.synapse.ne.jp/shinkodo/hayatoibun/hayatoibun-4.html

それでも、仁科邦男『犬たちの明治維新』(草思社文庫)によれば、明治天皇東京御幸の翌年、1869年にイギリスのエジンバラ公が江戸城を訪れた際、吠声が復活した。御所に勤める神職が犬のように鳴いたのだそうだ。延喜式の蕃客ばんかく(外国の賓客)を迎える際の儀礼にならったのだと言う。外国の王族が御所を訪うことは、奈良時代以来絶えてなかったので、古代王朝以来の礼式の記録である延喜式を引っ張り出して来るしかなかったのかもしれない。まさに王政復古。

先年、春日大社の若宮御祭を扱ったNHKの番組の中で、ご神体を守る神官が真っ暗な中、オー、オーと声を上げて歩く「警蹕けいひつ」の場面が放送された。吠声のことを知ると、「警蹕」を吠声に重ね合わせたくなる(中村講師もそう書いている)。本当に隼人の吠声が起源であり、それが現代にまでつながっているとしたら、とても面白い。

話を元に戻そう。「書紀」からの別の文章をひく。熊襲反乱を鎮圧に九州に赴いた景行天皇に対する、現地の女性首長である神夏磯姫かむなつそひめの発言の一部である。悪い賊のうち「その四を土折猪折つちおりいおりといいます。緑野の川上に隠れており、山川の険しいのをたよりとして、人民を掠めとっています」

「土折猪折」とは「土の上にじかに座る人たち」という意味だそうだ。岩穴なのか縦穴住居なのかわからないが、敷物なしに地面に座る部族があったこと、彼らは(「熊襲」視される部族中でも)野卑だとみなされていたことが、神夏磯姫の発言から察せられる。

同じく景行天皇の条。東国に派遣された武内宿禰たけうちのすくねが天皇に復命する。「東国のいなかの中に、日高見国(北上川流域か?)があります。その国の人は男も女も、髪をつちのような形に結い、体に入墨をしていて勇敢です。これらすべて蝦夷えみしといいます。また土地は肥えていて広大です。攻略するとよいでしょう」

攻略ではなく友好関係を結んでくれれば良かったのだが、これもまた現代につながる「日本人」形成の過程である。引用に描かれたような外見上の特徴を持つ「蝦夷」は、やがて「百姓」に成りかわる。東国に侵入して来た、より古い時代からの「日本人」に取って替わられたこともあっただろう。

日本書紀と古事記、絡まり合う二匹の大蛇  #18

前回、ちょっとだけだが風土記を思い出した。で、ここで記紀に触れなければ、この先、両書の出番がないかもしれない。また話が先に進まなくなりそうだが、両書については書きたいことがあるし、多少なりともテーマを掘り下げるのに役立ちそうな予感もある。

古事記に関して著書の多い国文学者の三浦佑之氏は、「記紀」という呼び方に異を唱えており、二つの書物を一括りにすべきではないと語っている。便利なので、つい使ってしまうけれど。それにしても、「正史」がほぼ同時期に二つ作られ、両者ともに残っていること自体が何と興味深く、驚くべきことか、と思う。似ていて違っていて、その似方や違い方にみな意味がありそうで、研究者に(アマチュア歴史家にも)無限に続く探究の楽しみを約束しているかのようだ。

新約聖書の福音書を作者の違うイエス伝の集成だと考えるなら、記紀同様、その類似点や相異点の探究は興味深い。しかし、国の成り立ちを語る記紀とはスケールが違っている。また、記紀には、特に古事記には、時に読む人をたじろがせるほどの神秘性が漂っている。色合いの違う二匹の大蛇が、鈍く輝く鱗を光らせながら、DNAの二重螺旋みたいにヌメヌメと絡まり合っている……とでも言うような。どちらか片方だけでも貴いのに、二つ合わせるとさらに深い魅力がある。そっぽを向き合っていて、互いへの言及がないのも興味深い。 続きを読む

ここで風土記を思い出す  #17

フローベール「ボヴァリー夫人」に触れるのは、この文章を書き始めた当初の思惑にはなかったものの、小文の趣旨からして迂路ではない。しかし、こんな具合に、こちらの隙を突くように闖入して来られると応対に困る。まあ、あてもなく始めて、あちらこちらフラフラしながら書き続けているのだから、元々隙だらけではあったわけだが。

「ボヴァリー夫人」は、フランス語ができないから和訳ばかり、生島遼一訳で多分三度、山田𣝣訳、吉川泰久訳でも一度ずつ読んでいる。もう一回読めと命令されたなら、「喜んで!」と応じる。しかし、この先限りある人生、自発的にもう一度読むかと自問すると、できればそうしたい、くらいの答えになる。

「ボヴァリー夫人」は、私にとって現代小説の最高クラスの教師にして教科書のようなのだ。好きか? と再度自問すれば、答えはイエス。ただし、お気に入りの教師やテキストのように好きなのである(現実世界では、そんな教師や教科書に、残念ながら巡り会わなかったけれど)。作品への愛さえあるものの、恋愛ではなく尊敬の対象ということだ。

ストーリーの話から、登場人物の方に話が逸れてしまって早幾歳。風土記が何故気に入ったのか語ろうとして、こんな流れになった。ストーリー指向ではない、登場人物の魅力への感受性に欠けている、一方、一定の枠組みの中で小世界が造形される話は大好き。風土記は、そんな私には実によく合っていた。

別に天邪鬼で、世間と反対の方向に行こうとしたのではなかった(私が天邪鬼なのは確かだとしても)。ごく自然に記紀より風土記となったのである。全体を貫くストーリーに欠け、古事記の神々や英雄、日本書紀の多彩な貴人たちといった華のある「登場人物」が活躍することもない――そんな風土記に惹きつけられたのは、私の性向からすると不思議ではない。

なぜ「ドン・キホーテ」が面白いのかという問いに、この発見は関わりがありそうだ。「ドン・キホーテ」は一つの長編小説というより、様々な小世界のエピソードの集積なのである(特に前編)。行く先々で個別の「事件」に出遭う「ロード・ノベル」と言ってもいい。もちろん神も英雄も出て来ないし、キホーテとサンチョは、私には魅力的な登場人物というより面倒くさい旅の仲間みたいに感じられる。

しかし、これは「ドン・キホーテ」を面白いと感じるに至る必要条件でしかない。面白さの解明という目的地に向かって、さらに旅を続けよう。でも一直線にではなく、時々の興味に応じて回り道をしながら、その寄り道自体を喜びとしながら。