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古代ローマの教養小説 「告白」(2) #45

アウグスティヌス「告白」の最大の魅力は(私のような非信者にとっては)、西方キリスト教会の聖人、教父とされる人物が、若い迷いの時期の罪について正直に語るところにある。しかし、彼は勿論ただの悪ガキ、不良少年だったわけではない。飛び抜けて頭が良かった。金持ちではない父親が息子を無理にもよその街に勉強に出したのも、その後パトロンのおかげでカルタゴで修辞学を学ぶことができたのも、彼の抜群の優秀さによる。そのことを、アウグスティヌスはへりくだった態度で、だが抜かりなく本文中に示している。

「私が答案を読むと、多くの同じ年ごろの、いっしょに読んだ者にまさって拍手喝采されました」

「自由学芸と呼ばれる学芸のすべての書物を……私は独力で読み、読み終えたものはことごとく理解しました……それらの学芸が、勤勉で才能のある人々にとってもはなはだ理解困難なものであるということは、それらの学芸を説明しようとこころみて、説明におくれずについてくることができたのは、彼らのうちのもっともすぐれた者一人だけであったので、はじめて気づいたようなしだいでした」

これだけ取り出すと嫌味だが、本文を読んでいてそんな風には感じない。教会に集う学問などない「小さい者たち」の、神に守られた本当の強さにくらべれば、自分の才能など何ものでもないとアウグスティヌスは常にへりくだっているからだ。『柳宗悦 妙好人論集』(岩波文庫)に、市井の愚鈍とも見える浄土真宗信徒(妙好人)の何気ない言葉に、高位の僧侶の説教に勝る信仰の真実が表される、とあったのを思い出す(カトリックと浄土真宗は色々と似ている気がする。余談ですが)。それでも、俺は超優秀だけど、神の前に出ると全然大したことなくてさ……と曲げて読んでみたくなるのは、私の性格の問題だ。

しかし、アウグスティヌスが自らの優秀さを罪としてであっても告白することには、神が「たかぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みをたもう」ことを示す(このことは様々な表現で繰り返される)という以上の意味がある。青年時代に虜になっていたマニ教や、彼が当時の水準を超えて深く理解したであろう哲学に対して、何故にそれらが退けられるべきなのかをアウグスティヌスは詳細に論じている。

その「何故」の部分を理解できなかったとしても、アウグスティヌスほど頭のいい人が言うのなら正しいに違いない、と信じることができるのである。そうした機能において、たとえが品下がりすぎで申し訳ないが、選挙や政治運動に登場する学者や「知識人」の役割と相似ることになる。「人々を人々の判断にもとづいて」愛することをアウグスティヌス自身は否定しているのだけれど。

アウグスティヌスの優秀さの告白にはもう一つの機能がある。語り手を、大人を困らせる不良だけれど本当は周囲の大人より頭がいい、というある種の物語の登場人物のように見せることだ。アウグスティヌスは小説や戯曲を書いたのではない、そんなもの関係ないと叱られそうだが、「告白」が書かれた当初から長く人気を保ち続けて来た理由の一つは、本来の意図はどうであれ、アウグスティヌスを主人公とする物語としても読めるように書かれていたことにあるはずだ。それは、どんな物語か?

「告白」という表題は私小説的な醜行、悪行の告白を連想させるものの、実際の内容は教養小説、成長小説に近い。前者の主人公はひたすらな駄目人間(あるいは駄目人間の擬態)だが、後者では隠れた長所や非凡な才能があるのに、世間や大人に抗って道を外れてしまう若者である。人気主人公の定番設定だが、こうした人物の長所をうまく書き表すの簡単ではなく、特に主人公が作者に近い場合には、ある種の危険が伴う。

長所の表現を著者自身の自慢と取られてしまうと、読者が共感してくれなくなるのである。共感を得られるかどうかは、結局のところ書き手の人格による面が大きいだろう。表現技術の巧拙に直接はリンクしない。肝は読者の応援を得られるかどうかであり、多くの読者は表現方法ではなく、主人公の真摯さや人物としての魅力の方に反応する。で、一旦作者が読者と握手できたなら、もはや語り手の優秀さが読者を白けさせることはなく、むしろ我がことのように、あるいは我が子のことのように、主人公の浮沈に一喜一憂してくれることになる。

アウグスティヌスの「自慢」が嫌味にならないのは、神への敬虔な姿勢と共に(それ以上に)滲み出る人間的な魅力によるところが大きい、と私には感じられた。人気のある書き手は、そういうものなのだ。その上、アウグスティヌスの表現技術は卓越しているのである。

不良少年時代 「告白」(1) #44

さて、私も#34での予告に従い、アウグスティヌス『告白』に取りかかろう。山田晶訳中公文庫版を最後まで読んだのである。ただし、第十二巻は斜め読みに近く、最後の第十三巻は本当に斜め読みだった。山田氏は、解説としてⅢの巻末に付せられた「教父アウグスティヌスと『告白』」(素晴らしく読み応えがある)の中で、旧約聖書「創世記」の解釈を行う第十一巻以降の内容もアウグスティヌスによる告白なのだと述べている。私ごときに否定はできないけれど、素人読者にはやはり十巻までとは別物に感じられる(特に最後の巻)。おまけに、それでも頑張って読み通したら、この本はなんて面白いんだろうと思っていた当初の気持ちが少し冷めてしまった。読み始めて当分の間続いたあのワクワク感を、これから甦らせることができれば良いのだが。

その本文は「偉大なるかな、主よ。まことにほむべきかな」と始まり、第一巻の始まりから三分の一くらいは、この調子で神への賛美が続く。信者ならぬ身には空しく響くばかりで、正直、Ⅰ~Ⅲをいきなり買いそろえたのは失敗だったと思った。しかし、第六章にアウグスティヌス本人が赤子として登場したところで、印象が変わる。罪の告白を赤ん坊時代から始めるかなといぶかしく思いつつも、ごく真面目な調子の文章で綴られるのが可愛く感じられた。そして、第七章において「幼年時代の罪」についての言及が始まるや、これは面白いと身を乗り出しそうになったのである。

念のために申し添えれば、第一巻六章までに書かれたことも決して空虚な賛美でないことは理解できた。読み進める内、賛美の言葉それぞれに意味があることが分かって来るのだ。第六章の「神よ、すべて善いものは、あなたから来ます。私の救いのすべては、神から来るのです」という件り、ここだけ読めば、そうですか、信仰が篤くて結構で、という以上の感想は浮かばないだろうが、実はこれ、「告白」の「中心教義」を要約したような文章なのである。これだけで理解できる人は天才。

「告白」の第一の魅力は、やはりアウグスティヌスがうちあける少年期から青年期にかけての「悪行」にある。これなくしては千数百年ものあいだ多くの人に読まれることはなかったし、私も手に取らなかっただろう。アウグスティヌスは、当初は頭のいい扱いにくいタイプの悪ガキに過ぎなかったが、十代半ばになると悪い仲間とつきあって立派な不良へと「成長」する。

「あなたのまなざしの前に、私よりいとわしい者があったでしょうか。遊び好きで、くだらない見世物を見たがり、芝居のまねをして落ち着かず、数え切れないうそをつき、家庭教師、学校の先生、両親をだますので、みな私にはてこずっていました……のみならず、親の地下室や食卓から盗んだこともあります」

「私は……醜行が同年配の友人に劣るのを恥じたほどです。じっさい、私は、彼らが放蕩を誇り、醜ければ醜いほどますます自慢するのを聞いて、たんに行為に対する情欲のみならず、賞讃にたいする情欲によってもかきたてられ、よろこんでそれをしたのでした。」

「無頼漢にひとしいことを実際にやらなかった場合には、やらないことまでやったようなふりをしました。それは仲間に、いくじのない奴、くだらない奴と思われたくないからでした。」

「私は盗もうと思い、実際盗みました……私がたのしもうとしていたのは、盗んで手にいれようと思った当のものではなくて、むしろ盗みと罪それ自体だったのです」

「おお、腐敗よ、奇怪なる生よ、死の深淵よ。してはならないことをしてよろこび、それがたのしいのは、してはならないからであるとは、何たることか」

アウグスティヌスの不良時代の告白には具体性が欠けている。ヤクザや不良、元不良の悪の「告白」が興味深いのは、私見では、人物が実在であることで危うく真実味が保証される波乱に富んだ展開やエピソードと、想像では描けない様々な細部との結びつきによる。アウグスティヌスにはどちらも欠けている。なのに読み応えがあるのは、一つは上記引用にもうかがえる心理分析の的確さによる。そこに、ここでは引かなかったが、悪い仲間と「バビロンの街路を闊歩」するといった生彩のある比喩表現が差し挟まれて文章が活気を帯びる(バビロンは旧約聖書で悪と腐敗を象徴する都市)。具体性はなくとも、アウグスティヌスが書きながら「いきいきと過去を想い起こし」ていたことが伝わって来るのである。

もう一つの理由は、不良時代に限らず、アウグスティヌスが語る時、その真実性を疑う必要がないことだ。全てを知る神に対して「告白」するのだから嘘は無意味であり、不可能でもある。故に彼の言葉には全幅の信頼を置くことができる。簡潔に語られる真実の言葉は、強度において、本当であると信じてもらうために費やされる百万言に勝る。私がアウグスティヌスを好きになれない理由の一つは、ここにある。神を保証人に立てることは、聖職者ならぬ文学者にとっては八百長であり、自殺行為だ。特に小説家にとっては、真実よりもリアリティーの方が重要であり、百万言でしか語れないことを語るのが責務なのだから。

旅する娼婦たち、翻訳の問題  #43

#40で、「アナバシス」中に突如登場して兵たちと共にときの声をあげる「娼婦」とは何者なのか、その正体の解明に一歩近づいた。駐日ギリシャ大使館に問い合わせたところ、松平千秋氏が「娼婦」と訳した単語”etairai”(アルファベットで表記するとこうなるようだ)の意味を教えてくれたのである。”etairai”の男性形”etairos”は同志、親友を、その女性形”etaira”は高級娼婦を意味する。つまり、英語訳の註comrade-womenは同志という意味をくみ、風間喜代三氏が「芸者」と訳したのは”etaira”から来ていたようだ。ギリシャ大使館の方の示唆によれば、古代から19世紀まで、軍隊には”camp followers”がつきもので、その中に娼婦も含まれていた。

私は”camp follower”という言葉を知らなかったが、手元の電子版ランダムハウス英和辞典にちゃんと載っていた。「非戦闘従軍者:軍隊を追って移動したり、兵営の近くに住みつく肉体労働者、行商人、売春婦など」。このような「軍隊に追従し宿営地近くで商売をする人々」について、私に限らず、多くの人の視野に入っていないのではないか。戦争を商売の種と考え、軍隊と共に戦場の近くを移動する業者がいたのである。危険を伴うが、彼らはこのリスクに大きな見返りがあることを知っていたのだ。

軍隊といえばまず戦闘部隊のことを考える。その後方に、物資の輸送や補充、医療などを行う部隊が追随することは、まあ分かる。しかし、戦場を移動する戦闘部隊の後方には、軍隊に属さない「キャンプ・フォロワー」もいたわけである。古代の軍隊は街が移動しているようなものだったと言われることがあるが、キャンプ・フォロワーを含めて考えると、その様態が理解しやすくなる。そうした存在は表だって語られることが殆どなく、戦争における影の部分だった。いや、今でもそうだろう。その影にこそ、「戦場の女性」たちは存在した。彼女らは必要とされていたのである。彼女らがいなかった場合に何が起こるかを示唆する事例が、ヘロドトス「歴史」に記されている。

アテナイからカリア(現在のトルコ西南部)に来た男性たちは「移住の際女を連れてゆかなかったので、彼らの手によって両親を失ったカリアの女を妻としたのだった。この殺戮のためにこれらの女たちは、決して夫と食事を共にせず、夫の名を呼ばぬという掟を自分たちで作って……娘にも伝えたのである。現在の夫が自分たちの父や子供を殺し、そうしておきながら自分たちを妻にしたという恨みからである。」ここでいう「移住」が平和的なものでなかったのは言うまでもない。この「移住者」たちは、アテナイという出自をもって「最も高貴な血統」と誇っていたのだそうだ。

ここで突然ながら「ドン・キホーテ」に戻りたい。前に書きそびれた中に翻訳をめぐる問題があり、それは旅する娼婦をめぐるものだったのである。前編第三章、まだ一人で行動していたキホーテが、城と思い込んで訪れた宿の戸口にいた二人の女性である。二人は「馬方たち」と行動を共にする予定なのだが、兵隊たちが通りかかれば軍隊付きの娼婦にもなるに違いない。さて、その宿の主人は頭がおかしいと察したキホーテをやりすごそうと、妄言につきあってインチキな騎士叙任式を城主として行い、その際、娼婦二人をお付きに仕立てた。彼女らが見事にその役割を果たすと、キホーテは二人の「淑女」に名前をたずねる。これに対する一人の返答を、岩根國彦氏は次のように訳している。

「女はいともしとややかに、サンチョ・ビエナーリャの裏長屋に住まい致しますトレド生まれの靴直し職の娘トロサでございます。いずこにありましょうともあなた様を主と思ってお仕え申します、と応えた。」

娼婦の中でも下級と覚しい二人を、キホーテが姫君か貴婦人と思い込んでいるのに対して、当意即妙、上流婦人風の言葉で、しかし卑しい出自は隠さず返したのが面白くて、笑ってしまった。しかし、間もなく、上流社会と無縁のはずの彼女らに、そんな言葉遣いができたのか気になり始めた。それに他の訳で前に読んだ時、ここで笑った覚えはない。で、牛島信明訳を見直してみると、次のようになっていた。

「彼女はひどくへりくだった調子で、自分は名をトローサと呼び、トレードのサンチョ・ビエナーヤ広場の商店街で働く靴直し職人の娘だが、これから先は、どこにいようともあなたを主君と思いなして、お仕えするつもりだと答えた。」

上流婦人風の言葉遣いではなかった。荻内勝之訳でも同様で、英語訳、読めないながらスペイン語版に目を通しても、女が特に上品に喋っているようには受け取れなかった。岩根氏は喜劇的効果を高めるために、あえてこのように訳したのだろうか? その効果は、少なくとも私にはあったわけだ。「超訳」とまでは言えないとしても、その方向に一歩近づいているようでもある。

翻訳ではないが、私も引用に当たり、ある種の効果をねらって省略をしたことがある。#41の「アナバシス」からの引用で、「戦闘部隊は山頂に達して……凄まじい叫び声をあげた。」と一部を省いている。「……」は、実は「海を見ると、」である。それまで、こんな短い省略はしたことがない。「海を見ると、」を入れると、先陣部隊が何を見て叫んだのか、まだ山の下の方にいるクセノポンらに先んじて読者が知ってしまい、劇的効果が薄れると考えたのだ。ただし、ホメロスなどを読むと、予言や予告で先の出来事を明らかにし、その後その通りに展開するという記述は実に多い。活字本が普及する以前、朗読が前提とされた時代には、こうした「ネタばれの予告編」が必要だったとも考えられる。現代と古代の読者とでは、作品内でのサスペンスの求め方が違っているようだ。

ヘロドトスをめぐる二人の学者  #42

岩波文庫から古代ギリシアの古典が松平千秋訳でいくつも刊行されている。松平氏は1915年生まれ、41年に京都帝国大学大学院を卒業し講師に就任、以後同大学でキャリアを重ねた(2006年没)。『歴史の父 ヘロドトス』の著者藤縄謙三氏は1929年生まれ、53年に京都大学文学部を卒業した松平氏の弟子である(大阪府立大学を経て、79年に同学部教授。2000年没)。松平氏は47年に助教授、58年に教授に就任しているので、藤縄氏は師が30代の少壮助教授だった頃から教えを受けていたことになる。『歴史』、『歴史の父 ヘロドトス』の解説、あとがきには、それぞれ他方の名前が登場する。並べてみよう。

「旧訳(「歴史」松平訳は昭和42年、筑摩書房『世界文学全集10』としてまず世に出た)に加筆するに当って、藤縄謙三氏から極めて有益な教示を得て、明らかに誤訳と見られる二、三の箇所を訂正することができた。ここに記して深甚なる謝意を表する次第である。」

「学生時代から今日までギリシア古典研究の多くの面で御指導いただいた松平千秋先生に対して、深謝の意を表したい。とりわけ先生のヘロドトスの御翻訳のおかげで、ヘロドトスを母国語で速やかに通読することができ、大いに助けられた。ただし本書の中での引用に当っては、私自身の勉強のため、拙訳を掲げることにした。」

双方の文を読んで、師と弟子による麗しいエールの交換と感じる人は、きっと私のような邪推力を育くんで来なかった心の美しい人だ。私にはどちらも含むところのある文章に見えるのだ。まず、松平氏。藤縄氏から「極めて有益な教示」を得ながら、二、三の訂正をしただけとは、どういうことか。藤縄氏から「明らかな誤訳」以外にも指摘があったのに、それらを取り入れなかったのではないだろうか。また、これだけ大部の本であれば、ある程度の誤訳は避けられないはずであり、二、三箇所の訂正だけで「深甚なる謝意を表する」のは大袈裟に見え、違和感を覚える。

続いて藤縄氏。『歴史の……』本文で松平訳を一度たりとも使わず、あとがきでの師訳の評価は「母国語で速やかに通読できた」ことだけである。おまけに、『歴史の……』が刊行された1989年には、京都大学教授として、また西洋古典学において、重鎮といえる立場にあったはずで「私自身の勉強のため、拙訳を掲げる」とは謙遜の度が過ぎている。藤縄氏は松平訳にかねて不満があり、改訳を機会として師に意見を述べたのだが、松平氏はそれに耳を傾けつつも指摘の殆どを受け入れなかったため、「拙訳」を『歴史の……』にちりばめることにしたのでは……と邪推したくなる。

藤縄氏は、『歴史の……』刊行まで「自分の研究者としての生涯の最も充実した時期の十五年間を、主として本書一冊のために費や」したのだそうだ。1972年に師訳の岩波文庫版が刊行されて暫くしてからの15年である。藤縄氏は師訳の問題点を看過し得ず、その翻訳の持つ美味とは裏腹の「毒」を中和することも、本書刊行の意図としてあったのではないか。これも邪推である。

#35で記したように、私は松平訳でなければ恐らく「歴史」を手に取ることはなかった。松平氏の訳は、古典の魅力を分かりやすく伝える点で極めて優れているのだ。氏は、古典を「気楽で平易」に読めるようにする才能を持っており、それは時に物語作家と評されるヘロドトス的なのである。対して、原文を重んじる藤縄氏は、ヘロドトスの後継者だが資料を重視して厳密な「歴史学の父」トゥキュディデスのよう、と対比したくなる……ものの、私はトゥキュディデスを未読なので、これは筆が走りすぎだ。

一方で、対象に向き合う態度において、松平氏は素っ気ないほどクールに見える。私には、大旅行をして各地から奇怪な話を持ち帰ったヘロドトスは好奇心の塊に見えるのだが、氏はその性向について「飽くことを知らぬ知的好奇心と冒険心は」生得でもあれば、イオニア植民地に育った環境によるところも大きいだろうと記すのみである。著者の人間的、個性的な側面にはあまり関心がないかのように。藤縄氏はその面で対照的だ。

藤縄氏は、ヘロドトスを「驚異することの天才」「あらゆることに感嘆し、疑問を抱く」人だったとする。藤縄氏は「ヘロドトスの地理学には……童心のような欲求から発して」いる面があり、その「精神の特徴として……強烈な好奇心」をあげている。我が意を得たり、と快哉を叫びたくなる。氏はさらに、ヘロドトスが「ツキュディデスとは異なり、詩人たちに大きな影響を与えていたらしい」とも記している。詩人たちの末席に連なる小説家のそのまた末席の身ながら、私もまた「歴史」に深く感じ入りました、と賛意を表したい。ところで、言うまでもなく同一人物を、松平氏は「トゥキュディデス」、藤縄氏は「ツキュディデス」と表記しているのである。

もう一つの声、ヘロドトスの「ヒストリエー」  #41

前回の続きです。「アナバシス」の中で私が心底驚かされたもう一つの声を取り上げる。軍勢は敵勢から逃れて、歩みを続けている。いま、テケスという山に到着したところだ。

「戦闘部隊は山頂に達して……凄まじい叫び声をあげた。それを聞いたクセノポンと後衛部隊の兵士たちは、前方に新手の敵が攻撃して来たものと思った……叫び続ける部隊を目指して後続の部隊が次から次へと駈け登ってゆき、頂上の人数が増すにつれて声がいよいよ大きくなった時、クセノポンは容易ならぬ事態に違いないと考え……騎馬隊を率いて、救援に駈けつけた。するとたちまち兵士たちが、『海だタラツタ海だタラツタ』と叫びながら、順々にそれを言い送っている声が聞こえてきた。とたんに後衛部隊も全員が駈けだし、荷を負った獣も走り馬も走った。全軍が頂上に着くと、兵士たちは泣きながら互いに抱き合い、指揮官にも隊長にもだきついた」

とうとう故郷ギリシアとつながる黒海の見える場所に到達したのである。兵士たちのあげる「凄まじい叫び声」は、傭兵たちの困難な道中につきあって来た読者をも激しく感動させる。将兵にとって残念なことに、苦難はまだ終わったわけではないのだが。それでも(途中息絶えた者は多かったとしても)、この本はハッピーエンドであることを付言しておこう――「アナバシス」は、西南戦争で敗走する西郷軍が、宮崎県北部延岡から九州山地に分け入って鹿児島に到達する行程を思わせるが、結末は大いに違う。司馬遼太郎『翔ぶがごとく』は、西郷軍の悲劇的終幕が分かっているので、読んでいて意気が上がらなかったものだ。

ここで話が少し逆戻りする。#37で「題名の『HISTORIAE』がヘロドトスにとって何を意味していたのかは知りたい」と記した数日後、私は最寄りの公共図書館で#38を書き始めた。Wi-Fiの使えるスツール椅子のカウンター席に腰掛けていたので、1時間もすると尻が痛くなった。休憩のために席を離れてヨーロッパ史の棚に行き、古代史のコーナーに目をやった途端、『歴史の父 ヘロドトス』なる書名が目に飛び込んで来た。部厚い本で、背表紙の文字も特大だったのである(新潮社刊)。著者は藤縄謙三という未知の人(実は松平千秋氏の弟子の西洋古典学者)。パラパラめくって、この本は借りなくてはと即断した。論文ではないのだから、「ドン・キホーテ」以外の書物はなるべく参考文献なしで記すつもりだったが、向こうから視界に飛び込んで来たものを無碍にするわけにはいかない。

結論を先に言えば、ヘロドトスの「ヒストリエー」について私が知りたいほどのことは、藤縄氏が書いてくれていた。「ヒストリエー」は、ヘロドトス出身地のイオニア方言では「調査・研究」を意味するようだ。ヘロドトスは「歴史」という著書全体を、「研究ヒストリエーの発表」と称しており、その調査方法は、各地で権威ある人から興味ある事象について聞き知ることだった。彼の「ヒストリエー」は、私たちの使う「歴史」とは意味がずれているのである。事実、ヘロドトスは現在でいう地誌や民族誌の調査を目的に大旅行をしたという説もあったそうだ。思わず首肯したくなるが、藤縄氏はこれを否定し、ヘロドトスは歴史家の名に値すると述べる。大事件の原因を探求する姿勢を持ち、愛着をもって記録をし、かつ保存しようとしていることなどがその理由である。

松平氏が「歴史」の解説にこの辺りを書いてくれていれば、私が頭を悩ます必要はなかった。だが、松平氏は膨大な研究の蓄積から一般読者に対し情報を提供する際、思い切りよく説明や注釈を省略したり、原意を損なわない範囲で翻訳文を分かりやすくアレンジしたりしているようだ。藤縄氏は、同書で、#35の冒頭で引用した松平訳「歴史」序文の「 」部分を、次のように訳している。

「以下は、ハリカルナッソス人ヘロドトスの研究ヒストリエーの発表である。人間によって生起したことが時の経過とともに忘却されぬために、また偉大なる驚嘆すべき業績、その一方はヘレネスにより、他方はバルバロイによって示されたものであるが、その業績の声誉が消えぬために、とりわけ両者が相互に戦った原因が不明にならないために、これを発表するのである」

上記訳文は松平訳より原文に忠実なようだが、これでは私が「ギュッと心をつかまれてしまう」ことはなかっただろう。藤縄氏は私訳について、「原文は複雑」で「その構造のとおりに日本語で再現するのは困難」だが、「論理構成の忠実な再現を目指して……試訳しておく」と記している。松平訳は意訳とは言えないし、まして「超訳」なんかではないわけだが、原文の「論理構成」からは逸脱しているようだ。私は、藤縄氏が、岩波文庫「歴史」の松平訳に不満があるのでは、と思ってしまった。「邪推力」が妙に発達している私には、両氏の関係に何か不穏なものが漂っている気がする。ゴシップ話みたいだが、ちょっと面白いので、次回に続ける。

驚くべき声、歴史の影  #40

クセノポンの戦記「アナバシス」から聞こえて来る声に耳を傾けてみよう。#38で触れた重装歩兵が進撃する際の歌声もその一つだ。また、「アナバシス」の中では、戦場の蛮声とは違う種類の声が繰り返し聞こえる。リーダーたち、特にクセノポンの行う演説である(前回引いた箇所はその一例)。古代ギリシアの人々が議論や演説を好んだのは言うまでもない。ポリス内で哲学者やソフィストが対話をし、政治家が演説を行い、市民が議論をする。さらには軍隊の指揮官までもが、士官や兵士を動かすのに言葉を駆使するのである。

戦場においても、指揮官は、部下の士気を高めるのに、情に訴えるだけでなく、理に叶った演説をしなくてはならないのだ。生死のかかった局面でも理屈をこねているのだから、変と言えば変な人たちだ。同道していたペルシア軍のティッサペルネスに裏切られ、不案内な場所で敵に囲まれて途方に暮れるギリシア軍の隊長たちに対し、クセノポンが行った演説の一部を聞いてみよう。

「明らかにわれわれを陥れようと謀(たくら)んでいるティッサペルネスに案内させるのと、捕虜にした男達に案内を命ずるのと、どちらが良策か考えてみるがよい。捕虜ならば、われわれに関わる過ちを犯せば、即ち己が身、己が命に関わる過ちを犯すに外ならぬことを承知しているであろうからな」最早ティッサペルネスの助力は期待できなくなったが、この先の道案内なら捕虜にだってやらせられる、というわけだ。ギリシア人には、こうした危機に際しても、煽り立てるのではなく、合理的で筋の通る言葉が有効だったようだ。

戦場での蛮声や、リーダーたちの演説は、戦記にはつきものと言ってもいい。しかし、私は、「アナバシス」の作中、全く意想外の声が突如として響くのを聞き、心底驚く経験をした。それも二度。この章では、その最初のものを取り上げる。ギリシア傭兵隊がティグリス川の支流を渡河し、敵陣を突破する作戦を実行しようとする場面である。指揮官ケイソリポスが命令を発し、麾下の部隊は川に向かおうとしている。

「全軍の将士が戦いの歌(パイアーン)を高らかに唄して鬨の声をあげ、それに合わせて女たちもみな叫んだ――隊中には多数の娼婦がいたのである」

女? え、娼婦? どういうこと? それまでギリシアの軍勢に女性、娼婦が含まれることは書かれていなかったので、その存在に当惑し、同時に彼女ら娼婦が将兵と共に鬨の声をあげたことに驚いたのだ。しかし、冷静になってみると、女性が隊中にいても不思議はないと思わせる記述は前にあった。私が耳折りをしたのは、下記である。指揮官たちは進軍の遅れや食糧不足を防ぐため、捕虜の多くを釈放し、荷物の軽量化を図る。

「隘路に監視兵を立たせて、持ち去ることを禁止してある品を発見すると、これを没収した。兵士たちはおとなしく命に服したが、たとえば美貌の少年または女に懸想(けそう)した男が、監視の目をくぐって連れていくような例外はあった」

敵方から美少年や女性を徴発したという記述は他にもある。しかし、禁令を犯すほどに恋慕した女性を隊中で売春婦にしたとは考えにくい。そもそも、美少年は兵士として紛れこませることはできるだろうが、女性が隊中で例外的な存在であったとしたなら、その存在を隠すことは難しいだろう。莫大な距離を移動する軍隊に娼婦が多数同道しているというのも違和感がある。翻訳の問題かもしれないので、少々調べてみた。

「アナバシス」の前に、「一万人の退却」と題された和訳が出ている(筑摩書房『世界文学全集5』昭和52年)。部分訳だが該当部分は入っている。そこには「軍隊の中には芸者が大勢いた」とあった(風間喜代三訳)。違和感どころではない。これは芸者=娼婦とする意訳なのだろうか。芸者という語のこうした使い方は最近まずしないので、違和感はいや増す。とはいえ、こうなるとやはり原語は「娼婦」で正しいのだろうか。

英語訳を調べてみた。ネット書籍などでいくつかの訳を見ることができたが、この語の訳し方は、どれも同じだった。下記は、その一例(H.G.Dakyns訳)。”with the notes of the paean mingled the shouting of the men accompanied by the shliller chant of the women, for there were many women in the camp”「women」に「comrade-women」という註がついている。和訳は、単にwomenと訳されるべき語を「娼婦」と意訳したのだろうか? ただし、複数形womenには、辞書によれば「セックスの相手をする女性」という意味もある。「comrade-women」というのもよく分からない。「同志の女性」は一緒に戦闘に参加する仲間ではなく、戦士の身近にいて世話をし、セックスの相手ともなる女性という感じか。

論文や批評を書いているのではないので、これ以上の詮索はやめる。ただ、戦史や戦記に大書されないので目が向けられることは殆どなく、ただいびつな形で一部の注目を集めて来た「戦場における女性」の問題を考えるには、古代からの戦争の歴史の見直しが必要だと思う。軍隊はたいてい血気盛んな若い男性の集団であり、彼らのセックス処理をどうするかは大きな問題だった。

戦いに負けた集団に属する男性が虐殺される一方、女性は生かされたという旧約聖書等の記述は、そうした問題の所在とある種の解決法を示唆しているだろう。女性は「戦利品」でもあったのだ。戦場を移動する部隊と共にある女性の存在、その実態は謎のままに残されている。彼女らは断片的な記述の向こうにしか見つけられない。そこには歴史が目を向けることのなかった影の領域が広がっている。

「アナバシス」における傭兵部隊と女性との関係について少しだけ考えてみよう。彼らがギリシアから愛人を同行させていたとは考えにくい。道中「調達」したと考えるのが自然だ。現地の女性と恋仲になることは恐らく例外で、「徴発」が普通だっただろう。また、売春を業とする者が軍隊に随伴する場面もあったと思える。戦闘集団の道連れとして、強制的にであれ運命共同体の一員と化した女性ならば、戦士と共に鬨の声をあげても不思議ではなさそうだ。