アウグスティヌス」カテゴリーアーカイブ

『女神の肩こり』 自作解説(2)

ロリーポリー・ロボット

自分の頭の程度を知っているので哲学書はあまり読みません。ただ通常とは違う思考法やおかしな用語に妙に惹かれたりもします。「不動の動者」「一者からの流出」「存在と存在者」等々、『女神の肩こり』の中で、唯一神が「世界を創り出したのは私ではなくあれ(女神)なのだ」(p3)と述べるのは、そうした言葉が歪んで(現実が夢の中に登場する時のように変形されて)現れたものと自分では思っています。

創造主と神とを分け、この世界の創造主は神から生まれたと考えると、世界がこうあるという現実を説明する上で便利な面があります(たとえば世の悲惨、不条理は神のせいではないと言える、とか)。また、神があらゆる面で至高の存在であるなら、世のありよう・・・・ばかりか、世界があるかどうかすら神は関知しないことになります。なので『女神の肩こり』の神は「私に世界など必要ない」(p55)と言い切るのです。 続きを読む

古代から近代を超えて 「告白」(7) #50

アウグスティヌスの名、「告白」という書名を知ったのがいつだったのか思い出せない。世界史を習った高校時代には遡れそうだ。読むべき本としてずっと気になっていたが、同時に、内容を知らないのになぜだか読みたくないとも思っていた。その「予感」は、半分あたっていた。聖なる書物があり、絶対的な神の導きがあり、という彼の信仰の世界を否定するのではない。しかし、前回の最後の二つの引用をみてほしい。好奇心の囚人である私は(この歳になっても。幸いにも?)、湧き出る疑問に蓋をし、聞こえて来る声に耳をふさぐように勧める……命令する言葉にうなずくことはできない。アウグスティヌスが教会の壁の向こうに行ってしまったことは、痛恨事なのである。

いや、アウグスティヌスは壁の向こうに行ったどころではなく、そこで聖人とされたのだ。かつての不良仲間は、お偉くなっちゃって、昔はいっしょに悪さをしたのにね、と絡んだだろうか。それとも、アグちゃんがただ者じゃないのはあの頃から分かってたよ、と早速奉る姿勢に転じて、ちゃっかり自分も周囲から一段高いところに置いただろうか。聖人というと、迫害され拷問を受けながら棄教しなかった殉教者、あるいは苦難に遭いながらも布教に努めた伝道者というのが一般的なイメージだろう。安定した暮らしをしていたアウグスティヌスの列聖には違和感がある。しかも、息子を回心に導いたとして母モニカまでも聖人とされている。教会の壁を厚くするのはそれほど立派なことなのか、と信仰心に欠けたニワカ愛読者としては皮肉を言いたくなる。

アウグスティヌスの正直な「告白」のおかげで、私たちは彼の女性問題を知っている。若い頃に子供を産ませた身分違いの女性と長く同棲した後、別の女性と正式の結婚をするために彼女をアフリカに帰す。婚約した相手は、註釈によれば十歳の少女である。 続きを読む

壁の向こう側へ 「告白」(6) #49

アウグスティヌスが好奇心の人だったことは、「告白」を読めば明らかだ。なので、青年アウグスティヌスがマニ教を信じるに至ったことについても好奇心の働きがあった、と想像するのは許される気がする。さらに、キリスト教が好奇心を否定するが故に、彼は一旦キリスト教から離れたのだとまで言えば、さすがに妄想と叱られるかもしれないが(個人的にはあり得ると思っている)。アウグスティヌスは、聖書を批判する「愚かな欺瞞者たちの意見に同意」したのである。しかし、やがてマニ教の教師たちの無知に失望し、その教説が彼の知的好奇心を満足させなかったために、彼はキリスト教に回帰したのだった。

#24で、私は旧約聖書中の虐殺の記述に気分が悪くなって、読書を中断したと書いた。中公文庫版『告白』本文と註によれば、マニ教も旧約中で「人々を殺す」者が義人(正しい人)とされることを批判していた。ここでの義人とは主にモーセを指す。マニ教徒の批判に対するアウグスティヌスの聖書擁護の弁をみてみよう。 続きを読む

好奇心に「たおれる」 「告白」(5) #48

 

アウグスティヌスは、ギリシア語を「残酷な脅迫と罰でもって、はげしく責めたてられて」教えられたために、ギリシア語やギリシア文学を嫌うようになった(古代ローマ時代の学生にとってのギリシア語は、私たちにとっての漢文? あるいは、かつて日本の医学生にとってドイツ語が必須だったような感じか?)。それで、アウグスティヌスは「言語を学ぶうえで、効果のあるのは、恐ろしい強制ではなくてむしろ、自由な好奇心である」と述べる。極めて現代的でもあれば、納得もできる意見なので、私たちはうなずく。

ところが、しばらくして本文中に「好奇心という悪徳」とあるのを読んで、ギョッとなった。実は、先の文章の後に「好奇心の流れを恐ろしい強制がせきとめるのも、神よ、あなたの法による」とあったのに、読み落としていたのだ。Ⅱでは「不必要にものを知りたがる好奇心」が、肉欲と共に、アウグスティヌスにとって克服しがたいものであったことも語られている。好奇心は否定されるべき悪だったのである。

この好奇心批判は、ネット全盛の現代社会においてわかりやすい。クリックやタップで興味のおもむくままにネット上を飛び回っていると、「好奇心の流れ」を断ち切って勉強や仕事に頭を立ち戻らせるのが難しくなる。好奇心が人をネットの囚人に仕立てるのだ。しかし私は、好奇心を「悪徳」とすることには承服できない。自分がネットの虜であることには嫌悪を感じるものの、好奇心の虜であることについては恥じない。それはこの世を生きるのに必要な力だからだ。耳鳴りがやまなくなって、私は音楽を聞く楽しみを失った。音楽は私にとって至高の娯楽と思っていたが、そうではなかった。好奇心は、私を今さら古典を読む大きな喜びに導いてくれたのである。

好奇心が否定されるのは、それが神への帰依を妨げるからだ。アウグスティヌス風に言うなら、好奇心は神の光に背を向けて光に照らされるもののみに興味をいだくことであり、光そのものである神に顔を向けるのを妨げる。好奇心の善し悪しの判断は、信仰によって決まるということになりそうだ。私はキリスト教信者ではなく、好奇心の方には味方をしたい理由があった。そもそも好奇心を否定しながら、アウグスティヌス自身からして好奇心の塊だったではないか。微弱な好奇心しか持たない人間に、真に創造的な文章は書けない。下記は、好奇心をめぐる創造的な文章の例である。 続きを読む

表現と翻訳のすばらしさ 「告白」(4) #47

#34の終わりに書いたように、中公文庫版のⅡ巻になると「『好きになれない』が『嫌い』に昇格し」、面白さも半減した。Ⅰは成長小説として読めるが、Ⅱは回心(=カトリック教会への全面的帰依)というゴールに至る「宗教的告白」という性格が前面に出て来る。カトリック信者ならざる身では、アウグスティヌスという「主人公」に最早それほど親身になれないのだ。にもかかわらず、これも前に書いた通り、楽しく読める。多くは、ずば抜けた表現力に裏打ちされた文章の魅力による。前回に続いて、例をあげたい。

アウグスティヌスはマニ教を捨てた後、キリスト教徒としての自覚を確かなものとするが、回心への道のりは捗らない。神に自らをゆだねるべきと思いつつも、欲情にとらわれていた、と語る。「眠れる者よ、さめよ……」と聖書を引いた後、「習慣のもたらす暴力」によって、神に対し答えるすべを知らない自らの状態について、次のように書く(文面が煩わしくなるので、この後しばらく引用前後の「 」を省略する。基本的に、です・ます調の文章が引用文)。

私の答えはただ、「もうすぐ」「まあ、もうすぐ」「ちょっと待って」という、ぐずぐずとした、眠たげなことばだけでした。しかもこの「もうすぐ、もうすぐ」ははてしがなく、「ちょっと待って」はいつまでもひきのばされてゆきました。

上記は、カトリック教会への帰依が遅滞するのを、目覚めた後、起き上がりたくなくて寝床の中でグズグズしている状態にたとえているのだ。卓抜した比喩表現であると共に、だれしも身に覚えのある日常的な葛藤のユーモアあふれる描写でもある。こうした内的な対話の形をとる文章は、他にも登場する。例えば、表面的な身体感覚がどのように内部に入って来るのかについて、アウグスティヌスは次のように書く。 続きを読む

元不良の教師 「告白」(3) #46

アウグスティヌスの表現の見事さについては、例をいくらでも挙げることができる。しかも、その文体と彼の人間的な魅力とは一体のものとなっており、「告白」という書物を読み応えのあるものにしている。いくつかピックアップしてみよう。

故郷の町で教師を始めた頃、彼は「自分の魂の半分」と語るほどの親友を得たのだが、その友人は突然の病で亡くなってしまう。友人の病と死をめぐる記述には凶暴なほどの悲しみが宿っている。しかし、アウグスティヌスの真骨頂は、その悲しみを薄れさせる「時」について語る時に発揮される(時間論は彼の中心的な探究テーマの一つである)。

「時はむなしくやすんでいるのではなく、なすこともなくわれわれの感覚をとおして過ぎさってゆくのでもありません。それは心のうちに不思議な業をなすのです。どうでしょう、時は日に日に来たり、去ってゆきました。来たりまた去りながら、私のうちに別の希望と別の記憶とをうえつけ、徐々に以前のさまざまな種類の快楽で私をつくろい、先のあのかなしみはこれらの快楽に道をゆずってしだいに消えてゆきました」 続きを読む

古代ローマの教養小説 「告白」(2) #45

アウグスティヌス「告白」の最大の魅力は(私のような非信者にとっては)、西方キリスト教会の聖人、教父とされる人物が、若い迷いの時期の罪について正直に語るところにある。しかし、彼は勿論ただの悪ガキ、不良少年だったわけではない。飛び抜けて頭が良かった。金持ちではない父親が息子を無理にもよその街に勉強に出したのも、その後パトロンのおかげでカルタゴで修辞学を学ぶことができたのも、彼の抜群の優秀さによる。そのことを、アウグスティヌスはへりくだった態度で、だが抜かりなく本文中に示している。

「私が答案を読むと、多くの同じ年ごろの、いっしょに読んだ者にまさって拍手喝采されました」

「自由学芸と呼ばれる学芸のすべての書物を……私は独力で読み、読み終えたものはことごとく理解しました……それらの学芸が、勤勉で才能のある人々にとってもはなはだ理解困難なものであるということは、それらの学芸を説明しようとこころみて、説明におくれずについてくることができたのは、彼らのうちのもっともすぐれた者一人だけであったので、はじめて気づいたようなしだいでした」

これだけ取り出すと嫌味だが、本文を読んでいてそんな風には感じない。教会に集う学問などない「小さい者たち」の、神に守られた本当の強さにくらべれば、自分の才能など何ものでもないとアウグスティヌスは常にへりくだっているからだ。『柳宗悦 妙好人論集』(岩波文庫)に、市井の愚鈍とも見える浄土真宗信徒(妙好人)の何気ない言葉に、高位の僧侶の説教に勝る信仰の真実が表される、とあったのを思い出す(カトリックと浄土真宗は色々と似ている気がする。余談ですが)。それでも、俺は超優秀だけど、神の前に出ると全然大したことなくてさ……と曲げて読んでみたくなるのは、私の性格の問題だ。

しかし、アウグスティヌスが自らの優秀さを罪としてであっても告白することには、神が「たかぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みをたもう」ことを示す(このことは様々な表現で繰り返される)という以上の意味がある。青年時代に虜になっていたマニ教や、彼が当時の水準を超えて深く理解したであろう哲学に対して、何故にそれらが退けられるべきなのかをアウグスティヌスは詳細に論じている。

その「何故」の部分を理解できなかったとしても、アウグスティヌスほど頭のいい人が言うのなら正しいに違いない、と信じることができるのである。そうした機能において、たとえが品下がりすぎで申し訳ないが、選挙や政治運動に登場する学者や「知識人」の役割と相似ることになる。「人々を人々の判断にもとづいて」愛することをアウグスティヌス自身は否定しているのだけれど。

アウグスティヌスの優秀さの告白にはもう一つの機能がある。語り手を、大人を困らせる不良だけれど本当は周囲の大人より頭がいい、というある種の物語の登場人物のように見せることだ。アウグスティヌスは小説や戯曲を書いたのではない、そんなもの関係ないと叱られそうだが、「告白」が書かれた当初から長く人気を保ち続けて来た理由の一つは、本来の意図はどうであれ、アウグスティヌスを主人公とする物語としても読めるように書かれていたことにあるはずだ。それは、どんな物語か?

「告白」という表題は私小説的な醜行、悪行の告白を連想させるものの、実際の内容は教養小説、成長小説に近い。前者の主人公はひたすらな駄目人間(あるいは駄目人間の擬態)だが、後者では隠れた長所や非凡な才能があるのに、世間や大人に抗って道を外れてしまう若者である。人気主人公の定番設定だが、こうした人物の長所をうまく書き表すの簡単ではなく、特に主人公が作者に近い場合には、ある種の危険が伴う。

長所の表現を著者自身の自慢と取られてしまうと、読者が共感してくれなくなるのである。共感を得られるかどうかは、結局のところ書き手の人格による面が大きいだろう。表現技術の巧拙に直接はリンクしない。肝は読者の応援を得られるかどうかであり、多くの読者は表現方法ではなく、主人公の真摯さや人物としての魅力の方に反応する。で、一旦作者が読者と握手できたなら、もはや語り手の優秀さが読者を白けさせることはなく、むしろ我がことのように、あるいは我が子のことのように、主人公の浮沈に一喜一憂してくれることになる。

アウグスティヌスの「自慢」が嫌味にならないのは、神への敬虔な姿勢と共に(それ以上に)滲み出る人間的な魅力によるところが大きい、と私には感じられた。人気のある書き手は、そういうものなのだ。その上、アウグスティヌスの表現技術は卓越しているのである。

不良少年時代 「告白」(1) #44

さて、私も#34での予告に従い、アウグスティヌス『告白』に取りかかろう。山田晶訳中公文庫版を最後まで読んだのである。ただし、第十二巻は斜め読みに近く、最後の第十三巻は本当に斜め読みだった。山田氏は、解説としてⅢの巻末に付せられた「教父アウグスティヌスと『告白』」(素晴らしく読み応えがある)の中で、旧約聖書「創世記」の解釈を行う第十一巻以降の内容もアウグスティヌスによる告白なのだと述べている。私ごときに否定はできないけれど、素人読者にはやはり十巻までとは別物に感じられる(特に最後の巻)。おまけに、それでも頑張って読み通したら、この本はなんて面白いんだろうと思っていた当初の気持ちが少し冷めてしまった。読み始めて当分の間続いたあのワクワク感を、これから甦らせることができれば良いのだが。

その本文は「偉大なるかな、主よ。まことにほむべきかな」と始まり、第一巻の始まりから三分の一くらいは、この調子で神への賛美が続く。信者ならぬ身には空しく響くばかりで、正直、Ⅰ~Ⅲをいきなり買いそろえたのは失敗だったと思った。しかし、第六章にアウグスティヌス本人が赤子として登場したところで、印象が変わる。罪の告白を赤ん坊時代から始めるかなといぶかしく思いつつも、ごく真面目な調子の文章で綴られるのが可愛く感じられた。そして、第七章において「幼年時代の罪」についての言及が始まるや、これは面白いと身を乗り出しそうになったのである。

念のために申し添えれば、第一巻六章までに書かれたことも決して空虚な賛美でないことは理解できた。読み進める内、賛美の言葉それぞれに意味があることが分かって来るのだ。第六章の「神よ、すべて善いものは、あなたから来ます。私の救いのすべては、神から来るのです」という件り、ここだけ読めば、そうですか、信仰が篤くて結構で、という以上の感想は浮かばないだろうが、実はこれ、「告白」の「中心教義」を要約したような文章なのである。これだけで理解できる人は天才。

「告白」の第一の魅力は、やはりアウグスティヌスがうちあける少年期から青年期にかけての「悪行」にある。これなくしては千数百年ものあいだ多くの人に読まれることはなかったし、私も手に取らなかっただろう。アウグスティヌスは、当初は頭のいい扱いにくいタイプの悪ガキに過ぎなかったが、十代半ばになると悪い仲間とつきあって立派な不良へと「成長」する。

「あなたのまなざしの前に、私よりいとわしい者があったでしょうか。遊び好きで、くだらない見世物を見たがり、芝居のまねをして落ち着かず、数え切れないうそをつき、家庭教師、学校の先生、両親をだますので、みな私にはてこずっていました……のみならず、親の地下室や食卓から盗んだこともあります」

「私は……醜行が同年配の友人に劣るのを恥じたほどです。じっさい、私は、彼らが放蕩を誇り、醜ければ醜いほどますます自慢するのを聞いて、たんに行為に対する情欲のみならず、賞讃にたいする情欲によってもかきたてられ、よろこんでそれをしたのでした。」

「無頼漢にひとしいことを実際にやらなかった場合には、やらないことまでやったようなふりをしました。それは仲間に、いくじのない奴、くだらない奴と思われたくないからでした。」

「私は盗もうと思い、実際盗みました……私がたのしもうとしていたのは、盗んで手にいれようと思った当のものではなくて、むしろ盗みと罪それ自体だったのです」

「おお、腐敗よ、奇怪なる生よ、死の深淵よ。してはならないことをしてよろこび、それがたのしいのは、してはならないからであるとは、何たることか」

アウグスティヌスの不良時代の告白には具体性が欠けている。ヤクザや不良、元不良の悪の「告白」が興味深いのは、私見では、人物が実在であることで危うく真実味が保証される波乱に富んだ展開やエピソードと、想像では描けない様々な細部との結びつきによる。アウグスティヌスにはどちらも欠けている。なのに読み応えがあるのは、一つは上記引用にもうかがえる心理分析の的確さによる。そこに、ここでは引かなかったが、悪い仲間と「バビロンの街路を闊歩」するといった生彩のある比喩表現が差し挟まれて文章が活気を帯びる(バビロンは旧約聖書で悪と腐敗を象徴する都市)。具体性はなくとも、アウグスティヌスが書きながら「いきいきと過去を想い起こし」ていたことが伝わって来るのである。

もう一つの理由は、不良時代に限らず、アウグスティヌスが語る時、その真実性を疑う必要がないことだ。全てを知る神に対して「告白」するのだから嘘は無意味であり、不可能でもある。故に彼の言葉には全幅の信頼を置くことができる。簡潔に語られる真実の言葉は、強度において、本当であると信じてもらうために費やされる百万言に勝る。私がアウグスティヌスを好きになれない理由の一つは、ここにある。神を保証人に立てることは、聖職者ならぬ文学者にとっては八百長であり、自殺行為だ。特に小説家にとっては、真実よりもリアリティーの方が重要であり、百万言でしか語れないことを語るのが責務なのだから。