月別アーカイブ: 2018年8月

ヤマトタケルの指 常陸国風土記(1)  #4

風土記の刊本は、「延喜式」の国の並び順に従って「常陸国風土記」から始めるのが通例とのことで、角川ソフィア文庫版(中村啓信監修・訳注)もそうなっている。常陸国が風土記巻頭に置かれるのは、読者にとって幸運と言えそうだ。「常陸国風土記」は始まりからして興味深く、読者が作中に入り込みやすいのである。私が本屋で立ち読みしたのも、この部分だった。風土記中、まとまって現存するのは五か国で、常陸以下、出雲、播磨、筑前、筑後である(ほかに風土記から他書に引用されたものを採取した「逸文」も風土記の一部とされる)。

「常陸国風土記」の冒頭、記紀神話中最大の悲劇的英雄倭武やまとたけるが登場する。「常陸国風土記」では、「倭武天皇」と表記されるのだが、即位することなく亡くなった倭武がなぜ「天皇」なのか、興味を覚えた方は三浦氏の新書をご覧ください。私が面白いと思ったのは、そこではなかった。

倭武は東夷の国を巡視し、新治県にひばりのあがたを過ぎたところで国造に命じて井戸を掘らせた。

流泉いずみ浄く澄み、いたく好愛うつくし。時に、乗輿みこしを停めて、水をもてあそび、みてを洗いたまふ。」 続きを読む

かわいそうな風土記?  #3

三浦佑之『風土記の世界』 (岩波新書、 2016年)に、こんなことが書かれている。風土記は「貴重な資料でありながら、読むためのテキストも注釈書も解説書・入門書の類もほんとうに少ない。2013年は同書の編纂命令が出て1300年の節目だったが、ほとんど目立たないままに過ぎた」源氏物語千年という年の、映画やらアニメやらまで登場してのお祭り騒ぎと比べると、まさに「雲泥の差」ではないか……。

私が風土記を読んだのは、角川ソフィア文庫版『風土記』上下二巻が書店の棚に並んでいるのをたまたま見て気にかかったのがきっかけだ。パラパラと中身をのぞき見し、興味を惹かれて購入した。で、読んで大満足した。ありふれた、そして幸福な本との出会いである。このようなことは数え切れないほどあったし、この先もそうあってほしい。

それでも、三浦氏が風土記の不人気ぶりを新書の「はしがき」に記しているのを読んで、驚きはしなかった。風土記が、有名な割に触れる人が少ないことに、薄々勘づいていたからだ。古事記の現代語訳をヒットさせた三浦氏は、その後古事記関連の注文ばかり来る中、岩波新書の編集者から風土記をと依頼があった時に「欣喜雀躍した」と書いている。風土記が軽視されている状況を残念に思っていたのだろう。

しかし、そんな三浦氏の書いた『風土記の世界』は、もちろん風土記の案内・入門書に違いないのだが、読んでいる内、風土記は三浦氏にとって本命ではないのだなあ、と気づかされてしまうのである。同書中、「記紀」について論じる氏の熱心さに比すると、風土記自体の魅力を語る時には、体温が下がっていると感じられるのだ。 続きを読む

チラシの裏に書くべき、なのか?  #2

本の面白さをめぐる考察は、全く個人的な事業である。つまり、私が自らの興味に従って提示した問いに、自分自身で答える。その答えは、他人に通用しなくても構わない。私が納得すれば、それが正解。だからといって、この先の航路が短く平穏なものになるという見通しは立たない。私は滅多なことでは自分自身の言い分を受け入れない性質なのである。

このような個人的な問いを、私はネットに「展示」しようとしている。2ちゃんねる流に表現するなら、そんなことは「チラシの裏に書いておけ」……日記に書けばいいようなことなのではないのか、と。確かにそうなのだが、もしかしたら誰かに読まれるかもしれないという緊張感はあった方が良い。むしろ、必要だ。それでなくては書き出すのは難しく、書き続けるのはさらに困難だ。長い間、「発表」をするための文章ばかり書いて来た弊害というところだろうか。

いま、「もしかしたら誰かに読まれるかもしれない」という微妙な書き方をしたのは、ネット上に自分の書いたものをさらす実験をした経験に基づいている。つまりは多少なりとも根拠のある言明だと思ってもらえると嬉しい。 続きを読む