月別アーカイブ: 2021年4月

シェイクスピアの歴史劇

物忘れや変な思い込みがひどくなったと言うと、前からそうだったと妻に返されます。主観的にはこの数年の変化なのですが。『ハムレット』は、福田恆存訳(新潮文庫)を繰り返し5回くらい読んだと記憶していました。ところが、カルデニオ-ハムレット論を書くために小田島雄志訳(白水Uブックス)を買い、初めて読んだ気でいたら、後で同じ本が書棚の結構目立つ場所にあるのを発見しました。付箋つきで。

野島秀勝訳(岩波文庫)も、やはり付箋つきで書棚に収まっていました。さすがに、同じ訳ばかり5回も読んだわけではなさそうです。しかし、福田恆存訳を何度か読み返したのも事実です。その都度、前に読んだ記憶が消えているのに驚いたことをよく覚えています。シェイクスピアの凄さを毎回新鮮な気持ちで味わえるので記憶力が悪いと得だ、と強がっていたものでした。

先日、福田恆存訳『リチャード三世』(新潮文庫)を買いました。これもすでに家にありました……積ん読でしたが。英国王の名を冠したシェイクスピア史劇は縁が遠かったのです。今回、松岡和子訳『ヘンリー四世』(ちくま文庫シェイクスピア全集31)をひもとくと既視感がありました。その源は山口昌男、高橋康也などの著作に出て来たフォールスタッフに関する記憶の残滓のようです。読んでみて、史劇を敬遠していた理由がわかりました。 続きを読む

続・アカデミアの空白

歴史学や経営史学において、個々の人間像の探るような人物研究は過去に属するもののようです。さりながら、歴史学者が、専門とする時代の重要な人物について世間の人より知識が少ないということはまずないでしょう。過去の蓄積を摂取しているからです。ところが、岩崎彌太郎の場合、彌太郎や三菱に直接かかわる分野の専門家を除けば、私の新書の内容以上の知識を持つ学者はほぼいないはずです。

そう断言できるのは、『岩崎彌太郎 会社の創造』以外、史料に裏打ちされた「伝記」がないからです(私の本の後に出たものは未見)。専門家で書く材料を持つ人はいたのでしょうが、誰も手をつけませんでした。ライバル視される渋沢栄一の方は汗牛充棟の有様なのに。会社の歴史や会社員という存在の探究においても、私の『会社員とは何者か? 会社員小説をめぐって』に匹敵する論が、それ以前にあったようには見えません(ただし関連分野の、特に調査的な研究には、上掲書は多くを負っています)。

両書は、前回述べたアカデミアの空白の存在を指し示しています。私の関心領域は彌太郎からシェイクスピアまで出鱈目のようですが、空白域の探検という点で共通してもいます。ただし、空白域を意図的に捜したことは一度もなく、関心を抱いて探究をする内に各所で未踏の場所に至ったのです。偏頗も度が過ぎています。ただし、興味が満たされれば「素人」の分を超えて何か言ったりはしません。それにしても、空白域はなぜ様々な学問分野に存在するのでしょうか? 続きを読む