月別アーカイブ: 2020年1月

旧約聖書をめぐる最後の問い

最初の小学生向け歴史教科書 東書文庫サイトより

今回、旧約聖書をめぐる話題で出しそびれていたものを棚ざらえし、旧約を終わりにします。とんでもない難物だったので、ここまで来られてホッとしています。一方で、終わるのが残念な気もしないではありません。何しろ凄い格闘相手だったものだから、悪戦苦闘したこと自体がいい思い出になっているのです。なので、いつかまた旧約に触れることが……いや、もうこんなきつい思いはしたくないかな。

棚ざらえの最初は、前回の続き。聖書の記述がいつ日本の歴史教科書に載るようになったのか気になりました。調べると、早くも明治5年、文部省の最初の歴史教科書『史略』に記されていました。「酋長」アブラハムのカナーン居住から、出エジプト、ダビデの王国、バビロン捕囚を経て、「耶蘇教の祖師」=イエスの刑死に至るまで(簡潔で見事なまとめ)。

西洋において聖書の内容は歴史的事実とみなされていましたから、それが導入されたのでしょう。実証を礎とする近代的な歴史学はまだ緒に就いたばかりです。しかし、以来150年近い時が流れた現代日本で、聖書の記述はなお歴史的事実であるかのような扱いを受けています。これこそ奇跡かもしれません。 続きを読む

モーセと神武の旅


 『解明 新世界史』(岡部健彦・堀川哲男共著 文英堂 1983年刊)より

上図は、私がかつて編集作業を行った参考書中の「歴史地図」です。編集といっても旧版のリデザインが主で、図版も旧版を多く使ったと記憶しています。もっともらしく「ダヴィデ・ソロモンの王国の領域」とありますが、この地図に確とした根拠はなかったでしょう。あるはずがないのです(#55参照)。昔だから通用したのかというとそうでもなく、今でも通用しそうです。

前に紹介した長谷川修一氏は『聖書考古学』(2013年)で「残念ながら、いまだに日本の歴史教科書の中には、モーセの出エジプトを史実として……記述しているものがある」と指摘しています。「聖書の記述を無批判に史料として用いて書かれた……歴史は、今や大筋で否定されている」のです。出エジプト記の辺りは神話の領域に属するものであり、ダビデとソロモンの王国などの叙述も史実とは言えません。

さすがに専門家の指摘があった後では訂正されているだろう、と思いつつ、現在使われている教科書を確かめるべく、上野の国立博物館裏にある国会図書館の別館(国際子ども図書館)に出かけました。教科書を調べようとするとなぜか結構面倒です。まるで世間の目をはばかるかのように……。 続きを読む

「聖書、読もうぜ」

マコーマック『雲』について書いている間、頭痛は軽くすみました。頭痛と旧約聖書の間に関係があるのかも、と少し疑っています。もう一つ証拠が加わったようでもありますが……読書や執筆は、高地への旅のようなものだと考えることにします。頭痛を怖れていては到達できない場所があるのです。

旧約は読むのも苦労しますが、それについて書くのも一筋縄ではいきません。書名をどう表記するかという最初の一歩から問題が生じます。ご存じのように、旧約聖書とはキリスト教側からの名称です。主とユダヤ民族との間に結ばれた契約は、イエス・キリストによって新たに結び直されたので、古い契約に関わるのは旧約、新たな契約に関するものが新約というわけです。もちろんユダヤ教はこれを認めません。ユダヤ教で何と称しているかは、別項で。

主ヤハウェと契約を結んだ人々を何と呼ぶかも悩ましく(ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人)、彼らの宗教がユダヤ教と呼ばれるようになる以前の「宗派」を何と記すべきかを含め、厳密さを求めるとそれこそ頭が痛くなります。一番面倒(と言っては失礼ながら)なのは、旧約聖書がキリスト教のものとして長く受容されて来たためか、扱い方について外からは見えにくい「作法」があることです。ケン・スミス『誰も教えてくれない聖書の読み方』は、この有形無形の聖書バリヤを一刀両断してくれました。 続きを読む

エリック・マコーマック『雲』 #60

なんと、『誰も教えてくれない聖書の読み方』をさらに先延ばしにして、「その本はなぜ面白いのか?」#60に突入します。エリック・マコーマック『雲』があまりに面白く、どうしても書きたくなったのです。

年末年始、エリック・マコーマック『雲』(柴田元幸訳)を読んで過ごした。450ページ強もある長編小説ながら、最後の方になると読み終えるのが勿体ないという気分になった。こんなの、いつ以来だろう? 読み終えるのが超嬉しい旧約聖書とはまさに対極だ。しかも、実のところ、好みかというと、そうではない。マコーマックは知らない作家だったし、この先別の作品を読むかどうか分からない。

痛みや残酷さ、怪異や怪物的存在を前面に立てる種類の小説が苦手で、自分でも書いたことがない。『雲』はまさにそうした小説なのに、夢中になって読んだのだ。何度か頭痛とじゃんけんすることになったが、この本を読むためなら負けても構わないと思っていた。そうなると意外に負けないのである。面白くて先へ先へと進んで行けるから、変に集中しないでも作品に入り込めるためか(この辺も旧約とは対極)。面白さには、こんな功徳もある。

好みではないのに面白いと感じたのは、なぜだろう? 一つは、現実ならざるものを現実と境目なしに、リアルであるかのように描くマジックリアリズムの作風(今や懐かしい?)だ。これは私にとってツボだが、それを怪異や怪物と結びつけられると嬉しくない。作品の起動力となる、地上を鏡のように映す「黒曜石雲(obsidian cloud)」はまさにリアルでマジックな怪異である(科学的に説明され得るが現実には起こったことはない、らしい)。 続きを読む