クセノポンの戦記「アナバシス」から聞こえて来る声に耳を傾けてみよう。#38で触れた重装歩兵が進撃する際の歌声もその一つだ。また、「アナバシス」の中では、戦場の蛮声とは違う種類の声が繰り返し聞こえる。リーダーたち、特にクセノポンの行う演説である(前回引いた箇所はその一例)。古代ギリシアの人々が議論や演説を好んだのは言うまでもない。ポリス内で哲学者やソフィストが対話をし、政治家が演説を行い、市民が議論をする。さらには軍隊の指揮官までもが、士官や兵士を動かすのに言葉を駆使するのである。
戦場においても、指揮官は、部下の士気を高めるのに、情に訴えるだけでなく、理に叶った演説をしなくてはならないのだ。生死のかかった局面でも理屈をこねているのだから、変と言えば変な人たちだ。同道していたペルシア軍のティッサペルネスに裏切られ、不案内な場所で敵に囲まれて途方に暮れるギリシア軍の隊長たちに対し、クセノポンが行った演説の一部を聞いてみよう。
「明らかにわれわれを陥れようと謀(たくら)んでいるティッサペルネスに案内させるのと、捕虜にした男達に案内を命ずるのと、どちらが良策か考えてみるがよい。捕虜ならば、われわれに関わる過ちを犯せば、即ち己が身、己が命に関わる過ちを犯すに外ならぬことを承知しているであろうからな」最早ティッサペルネスの助力は期待できなくなったが、この先の道案内なら捕虜にだってやらせられる、というわけだ。ギリシア人には、こうした危機に際しても、煽り立てるのではなく、合理的で筋の通る言葉が有効だったようだ。
戦場での蛮声や、リーダーたちの演説は、戦記にはつきものと言ってもいい。しかし、私は、「アナバシス」の作中、全く意想外の声が突如として響くのを聞き、心底驚く経験をした。それも二度。この章では、その最初のものを取り上げる。ギリシア傭兵隊がティグリス川の支流を渡河し、敵陣を突破する作戦を実行しようとする場面である。指揮官ケイソリポスが命令を発し、麾下の部隊は川に向かおうとしている。
「全軍の将士が戦いの歌(パイアーン)を高らかに唄して鬨の声をあげ、それに合わせて女たちもみな叫んだ――隊中には多数の娼婦がいたのである」
女? え、娼婦? どういうこと? それまでギリシアの軍勢に女性、娼婦が含まれることは書かれていなかったので、その存在に当惑し、同時に彼女ら娼婦が将兵と共に鬨の声をあげたことに驚いたのだ。しかし、冷静になってみると、女性が隊中にいても不思議はないと思わせる記述は前にあった。私が耳折りをしたのは、下記である。指揮官たちは進軍の遅れや食糧不足を防ぐため、捕虜の多くを釈放し、荷物の軽量化を図る。
「隘路に監視兵を立たせて、持ち去ることを禁止してある品を発見すると、これを没収した。兵士たちはおとなしく命に服したが、たとえば美貌の少年または女に懸想(けそう)した男が、監視の目をくぐって連れていくような例外はあった」
敵方から美少年や女性を徴発したという記述は他にもある。しかし、禁令を犯すほどに恋慕した女性を隊中で売春婦にしたとは考えにくい。そもそも、美少年は兵士として紛れこませることはできるだろうが、女性が隊中で例外的な存在であったとしたなら、その存在を隠すことは難しいだろう。莫大な距離を移動する軍隊に娼婦が多数同道しているというのも違和感がある。翻訳の問題かもしれないので、少々調べてみた。
「アナバシス」の前に、「一万人の退却」と題された和訳が出ている(筑摩書房『世界文学全集5』昭和52年)。部分訳だが該当部分は入っている。そこには「軍隊の中には芸者が大勢いた」とあった(風間喜代三訳)。違和感どころではない。これは芸者=娼婦とする意訳なのだろうか。芸者という語のこうした使い方は最近まずしないので、違和感はいや増す。とはいえ、こうなるとやはり原語は「娼婦」で正しいのだろうか。
英語訳を調べてみた。ネット書籍などでいくつかの訳を見ることができたが、この語の訳し方は、どれも同じだった。下記は、その一例(H.G.Dakyns訳)。”with the notes of the paean mingled the shouting of the men accompanied by the shliller chant of the women, for there were many women in the camp”「women」に「comrade-women」という註がついている。和訳は、単にwomenと訳されるべき語を「娼婦」と意訳したのだろうか? ただし、複数形womenには、辞書によれば「セックスの相手をする女性」という意味もある。「comrade-women」というのもよく分からない。「同志の女性」は一緒に戦闘に参加する仲間ではなく、戦士の身近にいて世話をし、セックスの相手ともなる女性という感じか。
論文や批評を書いているのではないので、これ以上の詮索はやめる。ただ、戦史や戦記に大書されないので目が向けられることは殆どなく、ただいびつな形で一部の注目を集めて来た「戦場における女性」の問題を考えるには、古代からの戦争の歴史の見直しが必要だと思う。軍隊はたいてい血気盛んな若い男性の集団であり、彼らのセックス処理をどうするかは大きな問題だった。
戦いに負けた集団に属する男性が虐殺される一方、女性は生かされたという旧約聖書等の記述は、そうした問題の所在とある種の解決法を示唆しているだろう。女性は「戦利品」でもあったのだ。戦場を移動する部隊と共にある女性の存在、その実態は謎のままに残されている。彼女らは断片的な記述の向こうにしか見つけられない。そこには歴史が目を向けることのなかった影の領域が広がっている。
「アナバシス」における傭兵部隊と女性との関係について少しだけ考えてみよう。彼らがギリシアから愛人を同行させていたとは考えにくい。道中「調達」したと考えるのが自然だ。現地の女性と恋仲になることは恐らく例外で、「徴発」が普通だっただろう。また、売春を業とする者が軍隊に随伴する場面もあったと思える。戦闘集団の道連れとして、強制的にであれ運命共同体の一員と化した女性ならば、戦士と共に鬨の声をあげても不思議ではなさそうだ。