月別アーカイブ: 2021年6月

天平の無名詩人 風土記補遺(2)   #72

ブログ開始時に風土記について集中的に投稿(#3~#11)した後、さらに補遺を書くつもりだと予告したのは、常陸国風土記の作者を調べようと思っていたからだった……いま「作者」と記した。風土記は、奈良時代初期、中央政府から任国に関する調査を求められた官僚による報告()であり、創作物ではない。役所の書類作成者を普通は作者と言わない。出雲の国の報告者は、当時Exelがあれば解を書くのに便利に使っただろう――出雲国風土記の「解」は、例外的に無味乾燥な地誌的な情報を含む完本に近い形で残っており、そんな空想が可能になる。

一方、常陸国風土記の書き手は、時に優美かつ雅趣に富んだ書きぶりを示していて、作者と表して不自然ではない。冒頭から間もなく、湧き出した泉の清冽な水に「倭武天皇」の指が触れる場面を書店で読んで、私は魅せられてしまった(#3)。報告書という性質上、作者の個性は抑制されるわけだが、それでもなお作者の才気は文中に流露している。

岩波古典文学大系版『風土記』(昭和33年に第1刷)の解説では、常陸国風土記の書き手の有力候補として藤原宇合うまかいと配下の高橋虫麻呂をあげられている。常陸に着任していた時期と、文章からうかがわれる「遊仙文芸的文人趣味」をその理由としている。宇合は万葉集に歌、懐風藻と経国集に漢詩を、虫麻呂は万葉集にその作とされる歌を多数残す文人なのである。しかし万葉集を読んでも、懐風藻にあたっても、常陸国風土記の「作者」として二人ともピンと来なかった。風土記の文章と肌合いがまるで違うのだ。 続きを読む

愛しい古代 風土記補遺(1)   #71

過ぎてしまえば一月前だって手の届かない昔だ。どんなに些細でも、起きたことを変えることはできない。歴史的な過去でもないのに、あった通りに思い出すことすらできない。そして、そんなあやふやな過去の集積が私という人間を成り立たせている。記憶は、過去という大海を漂う小さな船のようだ……なぜ急に、こんなことを言い出したかというと、はるかな昔に書かれたものに惹かれる自分の気持ちが、なお少し不思議でもあるからだ。そのことが記憶や過去、歴史といった言葉に結びついて、よしなしごとに思いをめぐらしてしまうらしい。

小説には大きな魅力を感じる。ずいぶん助けられた恩義もあるわけだが、野蛮すぎて穏やかな気持ちで愛でることは難しい。小説は街の路上で行われる喧嘩のようなものだ。人の喧嘩は楽しいし、自分でもそんな野蛮な遊びに参加していた。まだやる気はある。ただ、あれはやむにやまれず行うものだ。はるかな昔の書物に触れて愛おしい気持ちになることから、かなり遠い。無関係ではなく、それどころか深いところでつながっているはずだが、今はおこう。

風土記について書くために、続日本紀の一部に目を通した。風土記同様、官報めいた記述(というか人事などはそのもの)の合間に置かれた、亡くなった高僧の伝記や来朝した外交使節とのやりとりなどを記した部分を読むのが心地よい。特別なことが書かれているからでも、常陸国風土記のように書き手の才能を感じたからでもない。抑制された簡潔な筆致で書かれたエッセイを読む楽しみに近いのだが、はるかな昔の記録でなければ、ここまで惹かれはしないだろう。 続きを読む

「再び恋に落ちたシェイクスピア」限定公開

シェイクスピア大明神に導かれるままに書いた「再び恋に落ちたシェイクスピア」、限定的に読んでもらえる手はないかと考えていました。そもそもは、映画続編のシノプシスを書いてみよう、それがブログ1回分のネタになればと思いつきから始まりました。

ところが着手すると、登場人物やストーリー、場面の細部が勝手に、次から次に浮かんで来て途切れることがありません。それらを懸命に書きとめる内、400字詰め原稿用紙換算で100枚弱、シナリオ第一稿のようなものができてしまいました。長すぎて、ブログには収まらないし、制作者の権利侵害の恐れはないにしても、レワニワ図書館の蔵書として少し変です。困っていたら、一つのアイデアが浮かびました。

この「続編」、シーンによっては場面としてどう成立させるかを詰めないまま進めました。シナリオの書き方はよく知らないのですが、それらしく各シーンに番号をふってあって、中のいくつかはラフの状態に留めています。たとえばシーン47では、重要な登場人物である少年少女(どちらも貴族の家系)が、シェイクスピアの芝居の稽古に出かけているのが家族にばれそうになったものの「何とか誤魔化す。二人は目配せして微笑む」と記しました。 続きを読む