月別アーカイブ: 2020年8月

お知らせと空の写真

反薄明光線?

3月初め、レワニワ図書館の更新再開を宣言したものの、「女神の肩こり」をアップした後、事実上なにもしていません。カルデニオ問題が面白くなって、こちらに集中してしまったせいです(前にも書いたように、老化のせいか元々乏しかったマルチ・タスクの能力をほとんど失いました)。閲覧室の蔵書を増やそうと目論み、そのために横書き用のコンテンツを考えていたのですが、いざ始めようとしたら気が進みませんでした。

どうしたものか、まだ考えています。やめてしまう可能性もあります。一方、ブログで書く予定にしていたことは一段落したので、こちらの更新も間遠になりそうな気配です。「その本はなぜ面白いのか?」の続きとしては、風土記の補遺が残っていますが、これを書くには準備が必要なので、いつになるかわかりません。

一つ、訂正というほどでもないのですが、書いておきたいことがあります。「その本は……」の#28で、「カルデニオとキホーテとの類似は、私の発見のような気がしている」「『二人のキホーテ』という見方は、かつて大きな論点として浮上したことはなかったと考えていい」と記しました。その後、#64でロジェ・シャルチエ及びテイラー&ナンスが、それぞれカルデニオをキホーテの分身ととらえていることを明らかにしました。

先日、吉田彩子先生に問い合わせて、スペインでもカルデニオをキホーテの分身として考察する研究が複数あることを教えていただきました。未読ですが(読むとしても英語の自動翻訳経由になります……残念)、どんな内容なのか楽しみです。それにしても、主人公の分身があまり注目を集めないというのは、理由のあることとはいえ、誰よりカルデニオにとって気の毒です。是非とも、シェイクスピアが「カルデニオの物語」で救ってくれていた……と信じましょう。

上掲の写真は、8月26日の夕暮れ、日没の空が美しかったのでスマホで撮った中の1枚です。写真の右側に青い帯が見えますが、これは「反薄明光線」という珍しい現象のようです。MBC南日本放送のニュースサイトによれば、「湿度など条件が整って初めて見られる現象で、夏場の明け方、日の入り直後にたまに見られる」とのことです。

8月下旬から鹿児島や宮崎で、26日には全国各地で観測されてTBSのニュースにも取り上げられたようです。雨だらけで天候不順の7月の後、8月には酷暑が続き、それでも下旬になると空は秋の気配を宿して変化に富んでいます。で、このところ、やたらと雲の写真を撮っていて、上掲はその中の1枚です。なお、映り込んでいる住宅はプライバシーを考慮し画像処理を施しています。

トリュフの行方――カルデニオ問題、補遺の補遺

カルデニオ-ハムレット問題はブログでは終わったはずでしたが、2016年刊の本を追加で購入したら(本文124ページなのに送料・税金込み約4000円!)示唆に富んでいたので、メモを残します。Deborah C.Payne(編著)、Revisiting Shakespeare’s Lost Play : Cardenio/Double Falsehood in the Eighteenth Century Palgrave Macmillan。

巻頭に置かれたロバート・D・ヒューム教授(ペンシルベニア州立大学)の「『カルデニオ』/『二重の欺瞞』問題の評価assesment」では、梗概に「二重の欺瞞」に「混じり気なしのシェイクスピアは殆どあるい全く含まれない」とあって、私の説にとってまずそうだと危惧しましたが、全文を読んだら大丈夫でした。私のカルデニオ-ハムレット説では、純粋無垢のシェイクスピアの証拠がなくても困りません。あれば素晴らしいのですが。

一方でティボルド偽作説は明確に否定しており、ティボルドが17世紀後半の何らか原稿を元に作業したのは事実だろうと記しています。同書の別の著者は、シェイクスピア作かどうかはともかく、ジェイムス王朝時代(17世紀初頭)の劇風が残存していると述べます。こちらの意見は少々困ります。シェイクスピアが作者(の一人)でないと、イギリスとスペインの二人の文学的巨人の出会いが実現しません。 続きを読む

フアン・ルルフォの二冊  #67

ガルシア・マルケスは、フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』を「寝るのも忘れて二度読んだ。そしてあくる日『燃える平原』も読んだが、驚きは少しも変わらなかった」そうだ(『燃える平原』解説)。私は『燃える平原』を先に読んだ。すごいものに出会ったと思った。本に印刷された文字ではなく固い土塊つちくれを読んでいるみたいだ。旧約聖書がこんな感じだった。面白いとか面白くないとか関係なくページが進む。

『ペドロ・パラモ』は遠くの書店にしかないので、品切れだったがAmazonに注文した。予定より早く、『燃える平原』を読み終えて間もなく届いたので、メイン・ディッシュを待ち焦がれていた人のように、涎を垂らさんばかりに読み始めた。が、うん? 何か違う。色んな人の声が入り混じって、誰の言葉を聞いているのか、そもそも誰がいるのかさえ分からなくなる。その多くが、あるいは全部? 死人なのはいいとして、死が作品の全てを覆い尽くしてしまうのは、死をテーマとする小説が苦手な私にとって印象が良くない。

読了後、最初から読み直し始めた。そうするのが自然だと思えたのは不思議なことだった。そして、マルケスが二度読んだのも当然、と早合点しそうになった。だって一度読んだのでは、この小説の内容はつかめないからだ。二度目には、誰が語っているのか見当がつく……どころか、次第に明快に分かって来た。となるとマルケスは、学生の時に訳し始めたという訳者杉山晃氏も、最初から理解して読んでいた可能性があると思い直した。私には難しかったということだ。 続きを読む

ロシアのハムレット、「青白い炎」の翻訳

オリジナルのミニと翻訳(超訳?)されたミニ

さすがに夢ではありませんでした。「ハムレットとドン・キホーテ」の回に「ロシアでのハムレットの最初期の翻訳では、ハムレットとオフェリアが結ばれるハッピーエンドに改変され……訳者は劇作者で」とした記述の元が見つけられなくなり、夢か妄想かと心配になったのでした。「元」は不明のままですが、ロシアのハムレットについて根拠となる論文を発見しました。

柳富子氏によれば、ロシアでハムレットを最初に紹介したのは18世紀の悲劇作家スマローロフでした。しかし内容は大きく変更されていて、ハムレットはオフィーリアと共に最後まで死にません。柳氏の論文には記述がないのですが、岡部匠一氏は、二人が最後に「幸せにwedded happily結婚した」と書いています(英語論文)。

スマローロフの「ハムレット」はシェイクスピア作のクレジット抜きで発表され、原作者を見破られると、一部が似ているだけだと模倣を否定したそうです。柳氏は劇の概略を記しています。ハムレットは内省をせず、周囲の状況で復讐を先延ばしにするようです。結末では、反逆した娘オフェリアをその父が殺す寸前、ハムレットらが処刑場になだれ込み、父を成敗しようとすると、娘は父の命を取るなら私を殺してからにして、と……。 続きを読む