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岩崎弥太郎の基礎知識 その生涯

  

三菱の創業者岩崎弥太郎を知るための基礎的な情報として、その生涯を紹介します。岩崎弥太郎に関するネット上の情報はアップデートされていないものが多く、古い誤りが訂正されていないものもあります。Wikipediaも例外ではありません。私が一人で行うまとめなので、正確を期するつもりですが、何らかの誤りもあろうかと思います。コメント欄でご指摘いただければ、幸いです。

1.生まれ年
 岩崎弥太郎(以下、弥太郎)は天保5年12月11日、現在の高知県安芸市に生まれた。西暦で表そうとすると少し面倒で、辞書、事典の多くは1834年生まれとしているものの、公式の伝記や三菱のサイトなどでは1835年生まれとなっている。通例で天保5年は1834年とされるのだが、天保5年12月11日を西暦に直すと、1835年1月9日なのである。

2.地下浪人の家
 弥太郎の生家である岩崎家の家格は地下浪人じげろうにん、つまり下士(郷士)のさらに下で実質上は農民という家に生まれた。岩崎家の先祖については確とした記録は残されていない。かつては郷士だったのだが、恐らくは経済的事情から曾祖父の代に郷士の家格を失っていた。父は弥次郎、母は美和。酒乱と賢母の夫婦だった。

3.優秀な悪ガキ
 弥太郎は幼少期から暴れん坊のガキ大将で、美和は「いけぬ子供」だったと後年手記に書いている。しかし、漢学塾に通うようになるとすこぶる優秀で、弘化4年(1847年)、高知の藩校での試問で表彰を受け、また漢詩を藩主に奉呈して褒賞を受けた。安政元年(1854年)21歳の時に漢学塾の師と江戸留学に旅立つ。やがて秀才の集まる安積艮斎あさかごんさいの塾に席を得た。

4.帰郷と入獄
 艮斎塾に入塾後1年足らず、父親が事件を起こし入獄したとの知らせが江戸に届いた。弥太郎は直ちに帰郷を決意、歩き通しで実家に到達した後、奉行所の不法を咎めて壁に落書したために自らも牢に入れられた。弥太郎が牢仲間から算術を学び、実業での成功の基になったというのは伝説の類だが、後に藩役人に取り立てられた弥太郎が金の計算や帳簿の点検といった実務に長けていたのは事実である。

5.出世の糸口
 半年以上の入獄の後、弥太郎は高知近郊の村に追放の身となった。ここで、土佐藩重鎮で当時は失脚していた吉田東洋が開いた少林塾の門下生となり、名門の家柄である後藤象二郎の知遇を得た。東洋が藩重役に復帰すると、弥太郎は一時下級の藩職についた。その後、安政6年(1859年)、東洋の命で上士の下許しももと武兵衛と共に開港後間もない長崎での情報収集に赴いた。この際に弥太郎が書いた日記「瓊浦けいほ日録」は、その内容や文体において彼以前に類を見ないものだが、この事実は令和の今も殆ど世に知られていない。

6.長崎での挫折
 万延元年(1860年)、弥太郎は長崎で丸山遊郭の誘惑に負けて借金を背負った上、公金に手を出した。このままでは身の破滅と4ヶ月ほどの滞在で無断帰国し、罰を受けた。文久2年(1862年)に東洋が暗殺され、弥太郎自身も一時身の危険があったが、その後は堅実に暮らして妻子を得、郷士の家格を回復した。慶応2年(1866年)、藩改革と近代化のために組織された土佐開成館に出仕したが、内部の出鱈目ぶりに呆れて身を引いた。しかし翌年、開成館貨殖局長崎出張所(長崎土佐商会)の主任となった後藤の手配で再度長崎に行き、やがて商会の主任格を務めることになる。

7.二度目の長崎での職務
 長崎での主な任務は、後藤の野放図な武器、船舶の購入による借金や丸山遊郭での散財の尻拭いだった。それでも弥太郎は外国貿易商と対等の交渉をするなど能力を発揮し、慶応3年(1867年)に上士に昇格した。長崎は坂本龍馬海援隊の拠点でもあり、弥太郎は長崎商会の出納を預かる身として海援隊からの度重なる無心に悩まされた。また、海援隊の関わったいろは丸沈没事件や英国水兵殺害事件にも対応した(慶応3年)。

8.東奔西走の日々
 江戸幕府崩壊の過程で、外国貿易商の多くが長崎を離れて神戸、大坂、横浜に移転したため、弥太郎も明治2年(1870年)に大阪に移動し、開成館大坂出張所(大坂土佐商会)に加わった。程なく、外商と交渉して借金を返すためにまた借金をするといった過酷な職務をこなし、藩の蔵屋敷が扱う米をはじめとする商品の取引にも携わった。さらに自らの明治新政府へ仕官を働きかける目的もあって東京との間を何度も往復、東奔西走、多忙を極めた。

9.異例の出世
 大阪赴任後、弥太郎は異例の昇進をして藩重役に連なり、事実上、大坂土佐商会、土佐藩邸、蔵屋敷を束ねる責任者となった。この出世は、弥太郎の能力を封建的身分制度(地位と職分が不可分)の中で活用するための藩側の苦肉の策だったと言える。明治3年(1871年)、開成館大坂出張所は九十九つくも商会と名を変え、弥太郎は一時土佐屋善兵衛という商人名を名乗った。明治新政府が藩による商行為を禁止したことへの対応だったが、弥太郎は藩役人の地位を保持したままで、商会は実際には藩から分離されていなかった。

10.藩営事業を引き継ぐ
 明治4年(1872年)、廃藩置県に伴って弥太郎は藩吏を辞し、九十九商会は三川みつかわ商会と名を変えた。弥太郎は明治政府への仕官を願っていたが、弥太郎が藩の経済運営の要であることを理解していた上層部は事業を継続するよう説得、弥太郎は有利な条件で藩営事業を引き継ぐことになった。運営資金の補助を受け、藩邸や蔵屋敷、藩船2隻が格安で譲渡された(価格は妥当だったとの説もある)。この際、弥太郎と共に商業に従事すると決めた者だけが商会に残り、志願者による営利企業である「会社」が日本で初めて誕生した。

11.国内海運業者との争い
 明治の初め、洋式船を用いる外国海運会社が、江戸期以来の廻船問屋による国内海運業を圧迫していた。明治2年(1870年)、政府は国内業者を集めて半官半民の回漕会社を起こしたが失敗。明治5年(1873年)には三井などの商家を集めて日本国郵便蒸気船会社を発足させ、旧藩から接収した艦船を無利子で貸与するなどの優遇措置をとった。弱小海運会社として発足したばかりの三川商会にとっては迷惑だったが、弥太郎の指揮の下、組織力と顧客を大事にする姿勢が功を奏して国内海運界に頭角を現した。

12.三菱の創建と発展
 明治6年(1874年)、三川商会は三菱商会と改称、翌7年東京に本拠を移した。同年、台湾出兵の軍事輸送を引き受けて大久保利通をトップとする政府の信頼を得、遠征終了後に多数の船舶を受領して蒸気船三菱会社と名を変えた。同8年には初の外国定期航路である上海航路を開いた。同年、政府から命令書を交付され、政府の郵便事業の一端を担って補助金を受けることとなり、郵便汽船三菱会社と改称した。

13.外国海運会社との戦い
 国内業者の雄となった三菱は、米国の太平洋郵船Pacific Mail(P M)と海外航路をめぐって争ったが、明治8年(1876年)にPM社が撤退して同社の航路や持ち船を買収した。さらに、明治9年、英国P & OPeninsular and Oriental汽船と国内海運を巡って争い、苦闘の末に同社を国内から駆逐した。この時期、国内外の海上輸送を外国勢力に簒奪さんだつされなかったのは、政府の保護政策と共に、弥太郎と三菱の力があった。弥太郎が外国商人との交渉に長く深い経験を持ち、そのやり口を熟知していたことはこの勝利に役立っただろう。

14.事業多角化の端緒
 土佐藩から独立した後、弥太郎の三菱は吉岡銅山を経営し(明治6年)、三菱製鉄所を設立して造船業に進出した(同8年)ほか、海上保険事業、金融や倉庫業、高島炭鉱の経営などを行った。しかし、政府からの命令書に三菱は海運業に専念することがうたわれており、この命令に忠実に従ったわけではないものの、直接に財閥化へとつながる本格的な事業多角化は弥太郎の死後となる。

15.覇権と悪評
 台湾への軍事輸送の成功以降、三菱は政府の重鎮大隈重信らとの関係から優遇を得ていると非難されるようになった。また、三菱は国内外の海運会社との競争に打ち勝って独占的な地位を確立すると、優越的地位を利して運賃、保険、為替などで顧客に対し厳しい条件を課した。三菱は横暴だと不満が高まり、折しも自由民権運動が盛んになって大隈や弥太郎は自由民権の敵とみなされたことから、三菱と弥太郎に非難が集中した。

16.共同運輸との戦い
 明治14年の政変(1881年)で大隈が失脚、三菱は政府の庇護を失った。その後、三菱の海運独占を打ち破るため、各地の業者らが風帆船会社を組織したが、三菱の妨害により挫折した。明治16年(1883年)には、政府の肝いりで渋沢栄一らが共同運輸が創設し、三菱と正面から対決した。両社の争いは3年にわたり、運賃値下げや速度競争などで双方ともに消耗したため和解、合併して日本郵船が設立された。三菱は共同運輸の株を大量に購入するなどしていたため、日本郵船は実質上三菱の会社となった。

17.弥太郎の死
 共同運輸との戦いの最中、弥太郎はかねて苦しんでいた胃痛の症状が悪化、療養のため経営の第一線からは退いた。明治18年(1885年)2月7日、弥太郎は東京駒込六義園別邸で亡くなった。満50歳。胃癌だった。葬儀には朝廷から儀仗兵一個中隊が送られ、参列者は3万人にものぼったと言われる。生前の弥太郎のパブリックイメージは悪役一辺倒ではなかったようだ。弥太郎の弟の岩崎弥之助が後を継いで三菱の経営者となり、三菱は巨大財閥化していく。
 

 上記は、伊井のnoteブログ「はるかな昔」から転載したものです(一部改変あり)。