「ドン・キホーテ」の中のもう一人のドン・キホーテ  #28

今回は、私がなぜ古い時代に書かれた歴史書に興味を持つようになったのかを述べるために、そのきっかけとなったヘロドトス「歴史」について書く心づもりだった。ドン・キホーテ云々という趣旨からすれば、またしても遠回りのようだが、それは風土記を冒頭に置くことに決めた当初からの計画だったのである。タイトルを「ドン・キホーテはなぜ面白いのか」ではなく「その本は――」とした理由の一つだ。ヘロドトスの出番は、こんなに遅くなる予定ではなかった。ところが、以下に述べるような事情により、彼の登場はまたしても先延ばしされることになる。

このブログを書き出した後、私は岩根圀和訳『ドン・キホーテ』(彩流社)を読み始めた。すると、暫くして「ドン・キホーテ」の中にもう一人キホーテがいることに気づいた。もう一人のキホーテとは、シエラ・モレーナ山中での冒険に登場する青年カルデニオである。カルデニオは狂気に陥らない限り理性的な人物であることで、キホーテに似ている。このような狂気と理性とを往還する人物は、前後編を通じてこの二人以外にいない。

カルデニオという人物の有り様は、キホーテとの「類似」という点で、他の脇役たちと大きく異なっているのだ。ならば、この例外的な人物について考えてみる価値があるのではないか? ……と頭の中で思考をめぐらす内、すぐにも考察を進めずにはいられなくなった。私は書きながらでないと頭が働かないので、つまりそれは直ちに書き始めるということである。

カルデニオとキホーテとの類似は、私の発見のような気がしている。というのも、訳書の解説や(主要な訳書は読んだ)、「ドン・キホーテ」論、セルバンテス論に目を通した中で、こうした指摘にお目にかからなかったからだ。もちろんセルバンテス論、ドン・キホーテ論は山のように書かれており、私が目を通したのは九牛の一毛でしかない。

が、私見では――妄想ではない、つもり――カルデニオという登場人物にひとたび注目するなら、この小説について論ずるのに欠かせない重要な人物であることが明らかになるはずなのだ。なのに、そうした言及には一度もお目にかからなかった。「二人のキホーテ」という見方は、かつて大きな論点として浮上したことはなかったと考えていいように思える。

とはいえ、「ユリイカ!」と叫んで風呂から飛び出すことはしない。私の脳内には、ネット上の書き込みを読んだのだか、勤めていた大学の誰かが言ったのか、こんな科白が鳴り響いているのである。

「もしあなたが他の誰も扱っていない新しい研究テーマを見つけたと思っても、多くの場合、先行者がいる。先行研究がないのなら、それは研究に値しないテーマだから、思いついたとしても誰も研究しなかったのだ」と。「研究に値しない」には二様の意味がある。テーマが学問や社会に貢献しないという意味。もう一つは、そんなことをやっても、学問の世界では誰も評価しない、という意味。一般的には後者が死活的に重要であって、後者をクリアできたなら、前者は特に問題とならないようでもある。

……と、ここまで書いたところで、このブログとは関係のない事情により、思いがけず長く執筆を中断することになった。書く時期とアップする時期とがずれているために、そうは見えないと思いますが。中断前、キホーテとサンチョならぬキホーテとカルデニオのコンビが、私の脳内を激しく駆け巡っていた。だが、今は祭りの後のように静まり反っている。書くつもりでいたことのいくらかは忘れてしまったと思しい。

体勢を立て直すため、章を変えることにしよう。それにしても、この時期、近年の私にしては忙しくしていたものの、傍らで執筆活動ができないほど多忙なわけではなかった。生来の怠惰に加えて、複数の仕事を並行して行う力が減衰して来たのは明らかだ。元から同時並行的に作業を行うのが苦手で、それがさらに悪化したということに過ぎないけれど……。とはいえ、執筆中断には一つ良いことがあった。岩根圀和訳『ドン・キホーテ』を読み終えたのである。この翻訳を読んでいて一つ面白い発見があった。これについては、だいぶ後で記す予定。