カルデニオとハムレット  #29

カルデニオが登場するのは、「ドン・キホーテ」前編全52章中の第23章においてであり、物語から姿を消すのは終盤の第47章である。「ドン・キホーテ」の最初の7章(正確には第7章の途中まで)が独立した短編小説だったことは、ほぼ間違いないようだ。一方、セルバンテスが短編の続きを書いて長編小説にしようと構想した時、すでに続編の計画があったとは考えにくい。となると、短編に続く長い部分のほぼ半分の間、カルデニオは作中に留め置かれたことになる。これほど長くキホーテの物語に居座り続ける登場人物は、主人公主従と故郷の家族、隣人達を除けば、実のところ他にいない。

ただし、この間、本筋と無関係とみなされることの多い「物語の中の物語」が長々と語られるので、実際の「出演時間」はさほど長くはない。しかし、私見によれば、いくつかの挿入部分も含め、「ドン・キホーテ」(前編)後半部分において、カルデニオは作品を構成する屋台骨の役割を担うことを作者によって期待されていたのだ。このことを明らかにするためには、まず彼がどんな人物なのかを確かめておく必要がある。「ドン・キホーテ」の読者は、カルデニオについて、どれほど思い出せるだろうか?

カルデニオは、何といってもシエラ・モレーナ山中に出没する暴力的な狂人として印象深い。読者として、山中に分け入ったキホーテ主従と共に味わう正体不明の怪物の不気味さは、全編中随一と言える。カルデニオの暴力性は狂気の発作によるものであり、理性が勝っている時の彼は穏やかで礼儀正しく、元は教養もあれば育ちもいい青年であることが判明する。第24章では、狂気と裏腹の善なる性質を見せた直後、主従と、一緒にいた山羊飼いの三人を、強烈な暴力で一気に叩きのめしてしまう。カルデニオの野獣性の面目躍如だが、実はここが作中で彼が狂気と暴力性を存分に発揮する最後の場面なのである。

その後、カルデニオが狂気に陥った経緯が明らかになると共に、彼は単に最愛の人を奪われた気の毒な青年というだけの存在に変貌する。狂気への経緯とは、高位の貴族の御曹司ドン・フェルナンドの計略にはめられて、幼馴染みであり許嫁でもある美女ルシンダを奪われたことである。「ドン・キホーテ」の読者は、このカルデニオの悲劇を記憶しているだろう。フェルナンドとルシンダの結婚式を思い出す人も多いはずだ。その場面は、キホーテが度々引き起こすドタバタ騒ぎとは対照的に静かである。カルデニオは、二人の結婚式が行われているすぐ近くに潜入しながら、フェルナンドに復讐することも、ルシンダを奪い返すこともせず、式を進行させるままにして、黙って立ち去ってしまう。その後、彼は山中に隠れ住み、狂人として生きることになる。

近くにいた相手に手ひどく裏切られること、復讐の手前での逡巡、内省的な性質、最愛の女性の悲劇(ルシンダは式の最中ほとんど死にそうになる)、そして狂気……カルデニオは、同時代の劇作家シェイクスピアの登場人物ハムレットによく似ている。しかし、類似は表面上にとどまる。ハムレットは逡巡の底から立ち上がって、ついに悲劇の主人公として生き、死ぬ。一方、カルデニオは最後までほぼ何もしない。ハムレットに比較するまでもなく、彼が無名に近い人物であるのには相応の理由があったようだ。事件の渦中にありながら何もしない人物は、滅多なことでは魅力的にならないからである。

カルデニオが生きているのは、そもそも運命的な悲劇ではなく、すべて丸く収まるのが前提の娯楽物語だ。第36章において、キホーテ主従ら主要な登場人物が集まった旅籠に、さらに偶然にも(「ドン・キホーテ」では、重なる偶然が物語を進めていく)、ドン・フェルナンドとルシンダの「夫婦」がやって来る。活劇が期待される場面だが、カルデニオは再会したドン・フェルナンドに対して復讐の剣を振り上げることはしない。やがて、カルデニオ、ドン・フェルナンドは、それぞれルシンダと、もう一人の美女ドロテーアと結ばれて目出度しということになるのだ。時々狂人と化すというカルデニオの属性は、この辺りではすっかり忘れ去られている。

それどころか、カルデニオは、晴れて正式の妻となったルシンダと共に、仇敵のはずのドン・フェルナンドに向かって臣下の礼を取り、かしづくのである。裏切りの経緯を思い起こすなら、この展開は読者としては受け入れたくないようなものだが、実際にはそうでもない。たいていの読者は、この頃までにカルデニオへの興味を失っているからだ。この間の十数章、ラマンチャ村の司祭と床屋の物語への登場、美女ドロテーアの長い物語、ストーリーと無関係の「愚かな物好きの話」(岩波文庫『セルバンテス短編集』には独立の短編として収録されている)などが語られるので、カルデニオの悲劇は霞のかかった遠い過去の出来事のように感じられるのである。