「ネウロイ人は……蛇の襲来にあい、全国土から撤退せねばならぬという羽目に陥った……困窮の果て故国を捨ててブディノイ人とともに住むことになった/この民族はどうやら魔法を使う人種であるらしく、スキュタイ人やスキュティア在住のギリシア人のいうところでは、ネウロイ人はみな年に一度だけ数日にわたって狼に身を変じ、それからまた元の姿に還るという」との伝聞情報の後、ヘロドトスはこう書く。「私はこのような話を聞いても信じないが、話し手は一向に頓着せず、話の真実であることを誓いさえするのである」
蛇の襲来、魔法、狼への変身。エキゾティズム満載だが、ヘロドトスの書きぶりはクールかつ簡潔で、誇張や脚色はかけらもない。で、スキュタイの人々が聞かせてくれた話を、最後に「私は……信じない」と突き放す。客観的な記録者の範を守るわけだが、自分は信じなくても興味深い話ならちゃんと書き残すヘロドトスの選択眼とサービス精神のおかげで、私たちは、ネウロス人に関してあれやこれやと想像力を働かせて楽しむことができるのである。
範を守りつつ、信じがたい話も面白ければ記述する。本当の「歴史の父」はトゥキディデスであって、ヘロドトスは物語作者だと評されることがあるらしいが、私はこんな風に言いたくなる。ヘロドトスは好奇心でいっぱいの物語作者のように見聞きし、冷静な歴史家の筆致でそれを書いたのだ、と。私がヘロドトス「歴史」に感じるエートスとは、そのようなものだ。どちらが欠けても惹きつけられなかっただろう(「常陸国風土記」とその書き手にも同様のエートスを感じた)。歴史家と物語作者の両面が現れた例をもう一つあげよう。
「実際どこの国の人間でも、世界中の中から最も良いものを選べといえば、熟慮の末誰もが自国の慣習を選ぶに相違ない。このようにどこの国の人間でも、自国の慣習を格段にすぐれたものと考えている」と経験と知識に裏打ちされた洞察を語った後、実に興味深い逸話が実例としてあげられる。
アケメネス朝ペルシア皇帝「ダレイオスが……側近のギリシア人を呼んで、どれほどの金を貰ったら、死んだ父親の肉を食う気になるか、と訊ねたことがあった。ギリシア人は、どれほど金を貰っても、そのようなことはせぬといった。するとダレイオスは、今度はカッラティアイ人と呼ばれ両親の肉を食う習慣を持つインド人を呼び、先のギリシア人を立ち会わせ……どれほどの金を貰えば父親を火葬にすることを承知するか、とそのインド人に訊ねた。すると、カッラティアイ人たちが大声をあげて、王に口を慎んで貰いたいといった」自分たちを、お金を払えば父親の死体を食べずに火葬することを承諾する親不孝な野蛮人みたいに扱わないでくれ、と憤ったわけだ。
次の一節は、ヘロドトスの書き手としての姿勢を示すものとしてよく知られている。「私の義務とするところは、伝えられているままを伝えることにあるが、それを全面的に信ずる義務が私にあるわけではない。私のこの主張は本書の全巻にわたって適用されるべきものである」
その少し前、ヘロドトスはこう書いている。「私が確信するところはただ、かりに人間がみな自分の不幸を隣人の不幸と交換したいと望んでそれぞれの不幸を持ち寄ったとした場合、隣人の不幸をつぶさに検討した結果は必ずや誰もが、持ってきた不幸を欣然としてそのまままた持ち帰るであろうということである」
前者の文章において伝聞を事実と峻別する姿勢は、いかにも「歴史の父」というヘロドトスのイメージに相応しい。後者においても、ヘロドトスの歴史家としての洞察が披瀝されているように見える。だが、どうだろう? もちろん、後者の文章もまた、ここ(巻七151。内容は略)で記述された具体的な歴史的事例から汲み出された知恵に違いない。しかし、後者は合理的に導き出された結論というより、うがった箴言のように感じられはしないだろうか? この文章は、登場するのは人間でも動物でもいいが、寓話的な物語の教訓として語られる方が相応しく思えるのだ。
ヘロドトスを「歴史の父」と呼んだのはキケロなのだそうだ。この「尊称」はその名を不朽のものにするのに役立ったが、一方で、事実を重視し、実証を事とする歴史家としては、前述のように、物語的でありすぎるといった後世の批判(本当に歴史の父なのか?)の誘因にもなった。キケロの言葉自体、訳者松平千秋氏の解説から引けば、「歴史の父といわれるヘロドトスにしても、テオポンポスにしても、無数の作り話でうずめられている」(「法律論」)という文脈で出て来たのだそうだ。
一介の読者に過ぎない私には、ヘロドトスが「歴史の父」なのか、そもそも本当に歴史家だったのか、どうであれ大して問題ではない。ヘロドトスの「歴史」は読んで面白いのだから、それで十分なのだ。ただ、題名の「HISTORIAE」が、ヘロドトスにとって何を意味していたのかは知りたい気がする。「歴史」の中には、地理学や民俗学の書物と言った方が相応しい内容が大変に多く含まれているのである。だが、これは簡単に片がつく問題ではなさそうなので、疑問だけを残して次の本に進むとしよう。