イベリア半島と大ブリテン島の間に

思い出せないと前回記した「シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?」の補遺に関して、一つ記憶の底から甦って来たことがあります。シェイクスピアとドン・キホーテについて、なぜ「釈迦に説法」の誹りを免れない口出しをしているのか、書くつもりだったのでした。

私は厚かましいタイプではないと自認しています(それが厚かましい?)。一方で、変なことを思いついてしまい、そうなると黙っていられない面もあります。両方ともこのブログで発揮されている思いますが、後者が優勢かもしれません。しかし、いくら思いついたからといって、上記の問題に関して、英文学、西文学の諸先生が丁々発止のやりとりをしていたなら、その舞台にしゃしゃり出ることはなかったでしょう。

しかし、状況はそのようではなかったのです。スペイン側から「二重の欺瞞-カルデニオ」問題へのアプローチは多分ありません。シェイクスピアの真筆かどうかの争いなら管轄外ですし、セルバンテスやドン・キホーテの研究に資するものではないと考えるのは当然です。外野としては、首を突っ込んでくれたら楽しそうに思えるのですが、アカデミア内部の人はそうした外部的な事象には関心を示さないでしょう。

一方、イギリス側では、あくまでシェイクスピアの劇に関する問題であるという理由からなのか、『ドン・キホーテ』に対して必要最低限の関心しか示しません。境界の外に踏み出したとしてもほんの一足か二足、作品や作者に心底からの興味を抱いていると思わせる論考に私は出会いませんでした。

つまるところ、この問題において、『ドン・キホーテ』とその作者セルバンテスは、イベリア半島とグレートブリテン島を隔てる海に落っこちて洋上を漂っている状態なのだと思います。それに気づいて引っ張り上げようとした……本当にできたかどうかは分かりませんが、そうした試みであることは確かです。

英訳版を作るからといって、アカデミズムの内側に首をつっこむわけではありません。できもしません。ただ、恐竜の化石に見える石を拾った少年のように、とりあえず「大人」に報告を届けようと準備しています。以下、英語版の梗概に最小限の説明を加え、段落分けをするなどして、「三田文学」掲載版をレワニワ図書館の蔵書とする予告の代わりとします。

「シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?」予告編

イギリスの批評家・劇作家のルイス・ティボルドが、1723年にシェイクスピア作として公演した戯曲『二重の欺瞞』は、偽作とみられることが多かった。しかし、今世紀に入って文体統計解析などによる研究が進展し、シェイクスピアが共作者である『カルデニオの物語』(1613年初演)を元にした改作であるとする一定の評価が得られた。

結果、「シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?」を探るヒントが生まれたわけだが、こうした問いはこれまでなされていないと思われる。本エッセイでは、それを行う。

1では、偽作との声の高かった『二重の欺瞞』の評価が逆転する経緯を概説し、『二重の欺瞞』の先行研究を再検討して、そこにシェイクスピア作『ハムレット』の筆致が含まれていることを示す。

2では、シェイクスピアが、『ハムレット』の主人公と『ドン・キホーテ』の脇役カルデニオとの内面の類似を認識したことから、セルバンテスの長編小説の一部を戯曲化した可能性が高いことを提示する。『ドン・キホーテ』の怪物カルデニオが『二重の欺瞞』の凡庸なフリオに変わる際の、以前には指摘されたことのない重要な変更がその有力な根拠となる。

特別付録として、主人公として物足りないカルデニオをハムレット化して魅力的にする(?)プランを提示する。