愛しい古代 風土記補遺(1)   #71

過ぎてしまえば一月前だって手の届かない昔だ。どんなに些細でも、起きたことを変えることはできない。歴史的な過去でもないのに、あった通りに思い出すことすらできない。そして、そんなあやふやな過去の集積が私という人間を成り立たせている。記憶は、過去という大海を漂う小さな船のようだ……なぜ急に、こんなことを言い出したかというと、はるかな昔に書かれたものに惹かれる自分の気持ちが、なお少し不思議でもあるからだ。そのことが記憶や過去、歴史といった言葉に結びついて、よしなしごとに思いをめぐらしてしまうらしい。

小説には大きな魅力を感じる。ずいぶん助けられた恩義もあるわけだが、野蛮すぎて穏やかな気持ちで愛でることは難しい。小説は街の路上で行われる喧嘩のようなものだ。人の喧嘩は楽しいし、自分でもそんな野蛮な遊びに参加していた。まだやる気はある。ただ、あれはやむにやまれず行うものだ。はるかな昔の書物に触れて愛おしい気持ちになることから、かなり遠い。無関係ではなく、それどころか深いところでつながっているはずだが、今はおこう。

風土記について書くために、続日本紀の一部に目を通した。風土記同様、官報めいた記述(というか人事などはそのもの)の合間に置かれた、亡くなった高僧の伝記や来朝した外交使節とのやりとりなどを記した部分を読むのが心地よい。特別なことが書かれているからでも、常陸国風土記のように書き手の才能を感じたからでもない。抑制された簡潔な筆致で書かれたエッセイを読む楽しみに近いのだが、はるかな昔の記録でなければ、ここまで惹かれはしないだろう。

古代の書物を読む楽しみは、当ブログの主題の一つである。古い優れた書物からは、圧倒的な地理的距離や時代の遠さはそのままに、記録した者の手の感触を直接感じ取ることができる。決して錯覚ではない。石や皮に刻みつけられ、筆でしたためられた文字は、筆写され、活字になり、翻訳されるという変遷を経ながらも、読めばそこに古代が立ち現れる。この遠さと近さの目眩がしそうなギャップに魅力の源泉がある。

自らの不思議な気持ちを探ってみたら、かつて書いた(「外国語で書かれた正史」#21など)ことの確認になった。文字を記し、文章を成立させる技術が熟す前の時代、書き手たちは記録への情熱を持ち、苦心惨憺しながらも、書くという行為に大きな喜びを味わっていたはずだ。その際、私のお気に入りの古代の作者の多くが「外国語」を用いている。ヘロドトスは小アジアのイタリア植民市出身で、「アフリカ人」アウグスティヌスはラテン語を勉強して「告白」し、奈良時代初期の知識層は、記紀や風土記を中国語由来の文章で綴った。

私は現代日本語訳や訓み下し文を通じてそうした書物に触れているわけで、母語でない言葉で書く苦闘の痕跡が明瞭に見えるわけでないが、そうした文章は他では味わえない独特の力で私を惹きつける。外国語を使う不自由さ、緊張感、所詮自分の言葉ではないという葛藤や諦念が底流にあることが伝わって来るからではないだろうか。

奈良時代初期は特別な時代だ。それ以前にも文章は綴られていた。日本の古代人が中国語を読み、書く力を習得し、やがて自分たち自身のことを書きとめることができるようになる。事務的な文章が先だったのだろうが、やがて、詩や歴史、神話などと後に呼ばれるものも記すようになる。こうした恐らくは何百年もの経過と蓄積が、奈良時代の開花につながるのだ。

奈良時代より前の文章は、公的な『帝紀』『旧辞』を含めて残らなかった。単なる偶然ではなさそうだ。恐らく奈良時代初期に、時代を画するほどの文章技術の向上、能力の高い書き手の輩出がみられたのだろう。ロンドンに常設の劇場が作られると一気に幾人もの優れた劇作家が生まれシェイクスピアが出現したように。ダ・ビンチとミケランジェロとラファエロが同じ時代を生きていたように。ソクラテスとプラトンとアリストテレスが師弟としてつながっていたように。そうした同時代性と比定できる事態が生じたのではないか。

一つの時代が画された後、過去の記録は散逸する。私たちは歴史を尊重する姿勢が習い性になっていて、古いこと自体に意味があると考える。しかし印刷技術がなく、「書物」を保存することが難しかった時代、筆写の手間をかける価値があるとみなされない文章は消えて行く。天平のまばゆい光に照らされ、過去の文章は古拙な書き物とみなされて朽ち果てたのだろう。

官報、報告書だった風土記は、記紀や万葉集、懐風藻と違って部分的にしか残らなかった。しかし、新時代の才能はここに小さくとも輝くような手跡を残していた。その独自の意義を見いだした人ははるかな昔にもいた。おかげで、部分的にしろ千三百年の時を生き延びたのだ。私はそれを心穏やかに愛でることができる。