信仰に篤く高潔なヨブは、罪もないのに家族や財産を全て失い、業病に苦しめられる。それでもなお忠実な神の僕であり続けられるのか……? ヨブ記の問いは旧約時代のユダヤ人に止まらない普遍性を持っていたため、幾多の哲学者や宗教者によって追究され、重要な文学作品を生み出すインスピレーションの源にもなった。とはいえ、ヨブの問いかけは、何よりバビロン捕囚以降の苦しみの中にあるユダヤ人にとって切実なものだった。
ヨブの不幸は、イスラエル北王国滅亡以降、ヤハウェ信仰の立て直しをはかって来た人々の悲運と見合っている。彼らは周囲の堕落した信仰のあり方を否定して、ユダ王国ヨシア王の元で宗教改革を行い、正しい戒律や依って立つべき民族の歴史を編もうとしていた。だが、そうした試みはバビロニアによる侵略で虚しくなった。異教徒が繁栄を謳歌する一方、ヤハウェ信仰につながる人々は、信心の薄い者も篤い者も等しなみに捕囚やディアスポラという悲運に苦しんだのである。篤信者の立場は、ヨブに相似と言える。彼らが捕囚下で旧約の基を築いたのだった。
ヨブ記は旧約聖書の中で、創世記と出エジプト記ほどではないにしろ、よく読まれている。私も今回二度目のはずだが、前回読了したのか怪しい。今回、ヨブが全てを失った上に重篤な皮膚病に苦しめられるところまでは順調だったけれど、友人による説得が始まると辛くなった。ヨブと友人三人はお互い一歩も譲らず、議論を続ける。まるで花いちもんめのようだ。子供の頃、外から見ても、参加しても、何が面白いのかさっぱり分からなかった、あの感じ。平行線のまま、延々と議論は続く。 続きを読む