旧約聖書」タグアーカイブ

『女神の肩こり』 自作解説(3)


レンブラント「モーセと十戒の石板」

女神によって創造された穏やかな世界は、唯一神が物語を人間に吹き込んだことで一変しました。英雄ごっこが戦争になり、恋愛のために嘘をつくようになります。p25物語を通して記憶が共有されると、新しい知恵が生まれた」物語の形を取ると記憶は残りやすくなるようです。そこから知恵が共有され、農牧畜が始まります。富を蓄えることが可能となって、都市、国家、身分制度が形作られていきます。

物語が歴史を生み出したわけです。フランス語では歴史も物語も同じ言葉(histoire)で云々といったことも頭にありましたが、旧約聖書は「物語でありながら、その全体を『律法』として捉え」られるという加藤隆氏の文章(『旧約聖書の誕生』こちらを参照)により動かされたものと思われます。ユダヤ人の国の礎は律法=モーセ五書であり、それは宗教的な掟でもあれば物語でもあるのです。

p27国を統治するため、物語を元に律法を制定した」加藤氏の本から一歩踏み出し――というより逸脱し、「律法を記録するために文字が発明された」なんてそんなわけはありませんが、絶対にないとも言えない……ということにしておきましょう。ちなみにモーセの時代にヘブライ文字は存在しませんから、上掲のレンブラントの絵(1659年)は時代錯誤アナクロニズムです。 続きを読む

『女神の肩こり』 自作解説(2)

ロリーポリー・ロボット

自分の頭の程度を知っているので哲学書はあまり読みません。ただ通常とは違う思考法やおかしな用語に妙に惹かれたりもします。「不動の動者」「一者からの流出」「存在と存在者」等々、『女神の肩こり』の中で、唯一神が「世界を創り出したのは私ではなくあれ(女神)なのだ」(p3)と述べるのは、そうした言葉が歪んで(現実が夢の中に登場する時のように変形されて)現れたものと自分では思っています。

創造主と神とを分け、この世界の創造主は神から生まれたと考えると、世界がこうあるという現実を説明する上で便利な面があります(たとえば世の悲惨、不条理は神のせいではないと言える、とか)。また、神があらゆる面で至高の存在であるなら、世のありよう・・・・ばかりか、世界があるかどうかすら神は関知しないことになります。なので『女神の肩こり』の神は「私に世界など必要ない」(p55)と言い切るのです。 続きを読む

『女神の肩こり』 自作解説(1)

貝殻の中の真珠猫

この1週間ほぼ外出しませんでした。多分ただの鼻風邪で熱もありませんが、喉が痛かったので念のため。元々引きこもり体質なので大してつらくありません。その一方、時間だけはたっぷりあるのに、頭がうまく働かず、新型コロナのニュースに心を奪われていることも相まって、予定していたブログの更新がちっとも進みません。

つまりは『女神の肩こり』自作解説ができなかった言い訳です。サボっていたのは確かですが、準備は進めていました。で、外堀は埋めたものの、その後は攻めるべき敵城をぼんやり眺めるばかりで、出陣できない……できないのか、しないのか、自分でもよく分かりません。これから、進発します。

私が思うのに、『女神の肩こり』のみそ・・は一神教の神に妻とみなされる存在がくっついていることです。多神教であれば、ゼウスとヘラ、イザナギとイザナミなど夫婦神は珍しくありません。一方、唯一神に「妻」がいるのはおかしいと感じられることでしょう。このアイデアを思いついた時、物語は動き始めたのでした。結果、ゼウスとヘラを念頭に置いて……という当初案は吹き飛んだのでした。 続きを読む

フランクルとユダヤ教

裸の木々と満開に近い河津桜 近所の公園にて

休止の知らせをしないまま2週間以上更新しませんでした。最後の教員仕事に思ったより時間がかかったのと、旧約聖書との格闘が終わって気が抜けたことが主な原因のようです。ぼーっとしている間に、「新型コロナ」で世界に激変の兆しが……。

頭痛は続いているものの、程度も頻度も前ほどではありません。眼鏡をかける時間が長くならないよう心がけたおかげか、はたまた、やはり旧約から頭を切り離すことができたからなのか。と言いつつ、少しだけ旧約に関連することを書きます。

経緯は省きますが、最近ヴィクトール・フランクル『夜と霧』について考える機会がありました。その際、『夜と霧』にはユダヤ教や旧約聖書について言及が殆どないことに気づいたのでした。ユダヤ人であるが故に強制収容されたことを考えると、不思議です。 続きを読む

旧約聖書をめぐる最後の問い

最初の小学生向け歴史教科書 東書文庫サイトより

今回、旧約聖書をめぐる話題で出しそびれていたものを棚ざらえし、旧約を終わりにします。とんでもない難物だったので、ここまで来られてホッとしています。一方で、終わるのが残念な気もしないではありません。何しろ凄い格闘相手だったものだから、悪戦苦闘したこと自体がいい思い出になっているのです。なので、いつかまた旧約に触れることが……いや、もうこんなきつい思いはしたくないかな。

棚ざらえの最初は、前回の続き。聖書の記述がいつ日本の歴史教科書に載るようになったのか気になりました。調べると、早くも明治5年、文部省の最初の歴史教科書『史略』に記されていました。「酋長」アブラハムのカナーン居住から、出エジプト、ダビデの王国、バビロン捕囚を経て、「耶蘇教の祖師」=イエスの刑死に至るまで(簡潔で見事なまとめ)。

西洋において聖書の内容は歴史的事実とみなされていましたから、それが導入されたのでしょう。実証を礎とする近代的な歴史学はまだ緒に就いたばかりです。しかし、以来150年近い時が流れた現代日本で、聖書の記述はなお歴史的事実であるかのような扱いを受けています。これこそ奇跡かもしれません。 続きを読む

モーセと神武の旅


 『解明 新世界史』(岡部健彦・堀川哲男共著 文英堂 1983年刊)より

上図は、私がかつて編集作業を行った参考書中の「歴史地図」です。編集といっても旧版のリデザインが主で、図版も旧版を多く使ったと記憶しています。もっともらしく「ダヴィデ・ソロモンの王国の領域」とありますが、この地図に確とした根拠はなかったでしょう。あるはずがないのです(#55参照)。昔だから通用したのかというとそうでもなく、今でも通用しそうです。

前に紹介した長谷川修一氏は『聖書考古学』(2013年)で「残念ながら、いまだに日本の歴史教科書の中には、モーセの出エジプトを史実として……記述しているものがある」と指摘しています。「聖書の記述を無批判に史料として用いて書かれた……歴史は、今や大筋で否定されている」のです。出エジプト記の辺りは神話の領域に属するものであり、ダビデとソロモンの王国などの叙述も史実とは言えません。

さすがに専門家の指摘があった後では訂正されているだろう、と思いつつ、現在使われている教科書を確かめるべく、上野の国立博物館裏にある国会図書館の別館(国際子ども図書館)に出かけました。教科書を調べようとするとなぜか結構面倒です。まるで世間の目をはばかるかのように……。 続きを読む

「聖書、読もうぜ」

マコーマック『雲』について書いている間、頭痛は軽くすみました。頭痛と旧約聖書の間に関係があるのかも、と少し疑っています。もう一つ証拠が加わったようでもありますが……読書や執筆は、高地への旅のようなものだと考えることにします。頭痛を怖れていては到達できない場所があるのです。

旧約は読むのも苦労しますが、それについて書くのも一筋縄ではいきません。書名をどう表記するかという最初の一歩から問題が生じます。ご存じのように、旧約聖書とはキリスト教側からの名称です。主とユダヤ民族との間に結ばれた契約は、イエス・キリストによって新たに結び直されたので、古い契約に関わるのは旧約、新たな契約に関するものが新約というわけです。もちろんユダヤ教はこれを認めません。ユダヤ教で何と称しているかは、別項で。

主ヤハウェと契約を結んだ人々を何と呼ぶかも悩ましく(ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人)、彼らの宗教がユダヤ教と呼ばれるようになる以前の「宗派」を何と記すべきかを含め、厳密さを求めるとそれこそ頭が痛くなります。一番面倒(と言っては失礼ながら)なのは、旧約聖書がキリスト教のものとして長く受容されて来たためか、扱い方について外からは見えにくい「作法」があることです。ケン・スミス『誰も教えてくれない聖書の読み方』は、この有形無形の聖書バリヤを一刀両断してくれました。 続きを読む

続・旧約聖書を通読するには

旧約聖書を通読するには適切なガイドブックが必要だと私は考えます。しかし、それだけでは足りないかもしれません。読み通す上で最も大変なのは、通読への意欲を持続させることなのです。新約聖書を読んだからとか、教養のためとか、面白いかもしれないとか軽い気持ち(?)で挑むと、前回触れた「レビ記・民数記の壁」が高い確率で立ち塞るでしょう。それで、中の有名どころだけ読もうとか、入門書で満足するとかいうことになり勝ちです。実際、読まないですましたい人向けの本は結構あります。

忙しい現代人にとって、あれ・・は長すぎます。しかし、1回通読しただけで偉そうですが、旧約を全部読まずにすますのは勿体ないと思います。そこで、非キリスト教徒限定で、通読意欲増進のために勧めたい本があります。『誰も教えてくれない聖書の読み方』作者のケン・スミス氏も訳者の山形浩生氏も聖書やユダヤ教・キリスト教の専門家ではありません。学者でも聖職者でもありません。

作者は『ロードサイド・アメリカ』というベストセラーを書いた多方面に渡る才人、訳者は数多くの訳書があるものの翻訳家ではなく……何か凄い人(初耳という人は検索してください)。そんな「素人」に聖書をめぐる本なんて書けるのでしょうか? 書けるし、むしろ「素人」こそ書くべきという面があるのです(後述します)。で、『誰も……』に何が書いてあるかと言えば、聖書(新約を含む、というか新約の方が比重が大きい)の揚げ足取りです。私じゃなく、訳者の山形氏がそう言っています。 続きを読む