左右の区別が苦手な人がいます。小学校低学年では運動会の全体練習で左右の動作を合わせられずに居残り、老齢に至っても眼科の検査で眼球を右、左に動かしてと言われ一瞬どちらか迷ってドキドキする。私のことです。PDFで「ネットブック」を作るのにページの左右の配置が問題とわかり、これは苦手な分野だと心配していました。しかし、本当にやっちまうとは……。
頭には「縦書きの本は右開き」と入っていたのです。じゃあ、前回なぜ左右を逆に書いてしまったのか? PDFを見開きで読めるFlowPaperは横書き向けのアプリです。これを縦書き用にするのに、どうすればいいかと脳内で仮構築、実際に試用してと試行錯誤する内、右と左がどちらの向きなのか段々混乱し始め、やがて「縦書き/右開き」と記憶していたのを、左右が苦手な私は間違って覚えていたのだ、と誤った判断をするに至ったのでした。
上記のように書きつつ、左右の区別が苦手な人には分かってもらえるかもしれないけれど、そうじゃない大多数の人には理解の外、呆れられるだけかなと思います。「左右盲」というネット用語(?)があるそうです。そうした「同志」の書き込みを見ると、知能や運動神経とは関係がないらしく、「左右盲」でも実生活で困ることは少ないというのも共通の認識のようです。聞いた道順を覚えにくかったり、思わぬ時に恥をかいたりするだけです。
私は東西南北も苦手です。とんでもない方角を指して妻に驚かれたことが何度もあります。一方で、地図が読めなかったり、方向音痴だったりということはありません(後者は最近怪しくなって来ましたが)。どうも相対的な位置関係の認知に問題があるようです。
前を向いている分にはまず問題ありません。私たちは日常生活の大半、前を向いて暮らしています。咄嗟の判断に迷っても、右手左手で答え合わせができます。なのであまり困らないのですが、たとえば車をバックさせる時には、進行方向の左右と車本来の左右とが逆転します。切り返しをしていると、私はハンドルをどちらに切ればいいのか分からなくなります。
南を向いている人の右側が西で、左側が東(書きながら、これで正しいのかドキドキしています)、北を向くと左右が逆転します。またどこを基点とするかで相対的に変化することもあります。アメリカ西海岸は、太平洋の東側にあります。こういうのが苦手なのです。正しい方角を示すことは、私にとって時に難事業です。
さらに言えば、私は対になる言葉や概念も苦手です。句点と読点、撥音と拗音と漢字で書けば間違えませんが、クテン・トウテン、ハツオン・ヨウオンと声に出そうとして、どちらがどちらか急に分からなくなることがありました。帰納と演繹という言葉を口にした途端に混乱したことも。
この時は、まごつきながら、あれ、帰納と演繹って、実は同じことじゃないかと頭が勝手に考え始めてしまい、しどろもどろになりました。帰納の前提となる事実を集積するためには、何が事実であり、どの事実を拾い上げるかという仮説が必要なはずで……帰納と演繹の区別が脳内で崩壊する感覚は、左右が混乱する時にそっくりでした。
恐らく、概念を収めるしっかりした知の枠組みを持つ人には、こんなことは起こらないでしょう。知の枠組みがしっかりしていない人は(右と左の区別すらつかないようでは)、概念を理解するのに必要なこと、不必要なことの区別がつかず(何が事実か「今」は考える必要がない)、そういう概念語を口にしようとすると迷路に入ってしまうのかもしれません。
でも、しっかりした枠組みを持たない人は、代わりに頭をグルグル回転させてとんでもない発想ができる、とも思うのです。グルグルする内に、他の人の考えないようなことを考えつくことがあります。その大半は大抵は休むのに似た下手の考え(帰納と演繹は同じだ!)でしょうが、私の場合、小説を書く上で役に立つこともあったのです。……右左の話からずいぶん遠くまで来てしまいました。ここらでやめにしましょう。