「恋に落ちたシェイクスピア」

カルデニオとシェイクスピアをめぐる読書を続けている一環で、タイトルの映画をAmazon Prime Videoで見ました。とんでもなく良くできた作品でした。ジョン・マッデン監督。1998年制作、翌年日本公開。シェイクスピアは変わらない敬愛の対象なので、見ていたっていいはずなのに初見でした。「濁った激流にかかる橋」の連作を書きつつ、学科を作るのに右往左往していて、気持ちに余裕がなかったのでしょう。

全くアカデミー賞を取るのにふさわしい。制作陣の知的水準の高さがエンタテインメントとして完璧なものを生み出す礎になっており、そこがとてもイギリスっぽい感じがします(私の書き方は何だかバカっぽい……)。スティーヴン・グリーンブラット(#64参照)は、自作のシェイクスピア伝記のアイデアを、同作の脚本家の片割れマーク・ノーマンと話をしていて得たと記しています。

ロミオとジュリエットの嘘のメイキングとも言える内容で、モンタギュー家とキャピュレット家の戦いの場面の稽古中に、ライバルの劇場主たちの襲撃を受けて本当の剣戟になるシーンには大笑いしつつ、何といううまいやり口だと驚嘆しました。その他、いくらでも褒められます。でも、不満がないわけじゃありません。

エリザベス女王の使い方は水戸黄門と何も違いません。それが悪いとまでは言わないにしても……。また、主演の男女が私にはあまり魅力的に感じられませんでした。女性の方は私の個人的な好悪だけのことですが(グウィネス・パルトロウはこの作品でアカデミー賞主演女優賞)、シェイクスピア役の男性(ジョセフ・ファインズ)については有無を言わせないほどの魅力が必要なはずで、文句を言っても許されるかと思いました。

劇中のシェイクスピアは、ライバルの劇作家クリストファー・マーロウやキャストの優れた役者からアイデアを提供され、それをそのまま脚本にします。実際のシェイクスピアは剽窃を恥とせず、他人の羽で身を飾る成り上がり者のカラスと同時代の作家に悪口を書かれたらしいのですが、映画では盗んだのではなく自発的にプレゼントされたことにしたわけです。ならば、主人公にはライバルをも惹きつける抜群の才能と人徳が体現されなくてはならないはずです。私にはそうは見えませんでした。

シェイクスピアのあやつる言葉のように甘いこのお伽噺は、たった・・・二十何年か前の作品ですが、もはや再現できないでしょう。今なら、劇中に何人かのアフリカ系の人物が登場することになるはずです。エリザベス朝のロンドンですから奴隷のような低い階層の黒人がいても不思議はないのですが、そうした歴史的な制約を超えてかなり重要な役どころを担うことになりそうです。

映画の最も重要な時代背景は、風紀紊乱を防ぐためとして、女性の役を男性が演じるよう義務づけられていたことです。ですが、ならば当然想定されそうな同性愛的な要素はほぼ表面化しません。唯一、主人公男女の最初のキスのシーンにおいて、女性は少年役者のなりをしているので、シェイクスピアの側からすると少年相手のキスということになります。直後、彼は相手が女性だと知って驚きます。しかし、今ならこんな展開にはならないでしょう。

そもそもシェイクスピアが恋に落ちるのは男性と設定されそうな気がします。恐らくは彼がソネットを捧げた貴族、グリーンブラット(ら)が同性愛の相手と考えているサウサンプトン伯に。また、映画での出番はほんの少しですが、展開において大変に重要な劇作家クリストファー・マーロウが、さらに大きな役割を果たすことになるでしょう。

サウサンプトン伯 Wikipediaより

マーロウは才知に富み、一方で無頼の生活を送る同性愛者で、少年を好まない者は阿呆だと言ったとか。こうした人物が周辺にいたのですから、それを劇中に活かさない手はありません。ロマンティックな恋愛ドラマという基本線は保ちつつも、現代版は陰影を濃くし、やや複雑な物語と化して、お伽噺のテイストは失われることになりそうです。

それはそれで上出来な映画になる可能性はあります。しかし、無垢なお伽噺の時代を知っている者には、いささか残念なのです。たぶん皆さんお気づきと思いますが、私はポリコレが好きじゃないんです。