セルバンテスのカルデニオとシェイクスピアのハムレット、二人の登場人物の類似性について「近くにいた相手に手ひどく裏切られること、復讐の手前での逡巡、内省的な性質、最愛の女性の悲劇(ルシンダは式の最中ほとんど死にそうになる)、そして狂気」と#29に記した。しかし、最近もう一つの相似に気づいた。
二人とも、裏切りの陰謀によって遠方に追いやられた後、「手紙」を読んで真相を知り、故地に舞い戻るという経験をするのだ。ありがちな筋ではあるが、ここまで共通点が多いとは……。となると、類似性の指摘がないことがむしろ不思議に思えて来る。唯一、これも最近、「哀れなカルデニオはスペインのハムレットであるかのようになすすべもなく復讐を探し求める」(劇評家Michael Billington。私訳)と新オックスフォード版全集「二重の欺瞞」冒頭の評言抜粋集にあるのを発見したが、明らかに揶揄するニュアンスだ。
研究者たちは、こうした類似を学問的には無意味として取り上げないのかもしれない。しかし、気づいていないだけという可能性もある。こんな例を知っているからだ。#28でカルデニオとキホーテの相似性について書いたが、作品内で重要な意味を持つこの要素への言及が、たとえば『ドン・キホーテ事典』のカルデニオの項目にもない。恐らく事典が編集された時点(2006年)では指摘されたことがなく、つまるところカルデニオは研究者たちの論点ではなかったと推量される。
その後、シェイクスピア側の研究者がカルデニオがキホーテの分身であると指摘をしているのを発見した。一つはロジェ・シャルチエ。理性と非理性、洗練と暴力を往還するカルデニオはキホーテの「生き写し」だと述べている。シャルチエは先行文献を示していない。つまり、英語版が出版された2013年の時点でシャルチエは彼独自の指摘だと考えていたことになる(仏語版は2011年刊。私は未見。書誌は#62参照)。
Quest for Cardenioでは、テイラーとナンスが、カルデニオの「ドッペルゲンガーであるキホーテ」と記している(良い言葉の選択ではないと思う)。ここでも先行文献への言及はない。上記二者とも、分身であることの意味については詳しい検討はしていない。私が#28~#33で示した議論は孤立し、突出している。学者でない者の「研究」にはありがちなことだろう。
さて、カルデニオとハムレットが似ているとして、そこに何か意味はあるのか? という問いかけをしよう。二つある。一つは、同時代の文学的巨人が、恐らく史上初めて、「内省」する登場人物を(二人ほぼ同時に)作り上げたことだ。「内省」が「初めてできるようになったのは、たぶん『ハムレット』からだろう」とピーター・アクロイドは『シェイクスピア伝』で述べている。「『人格』を論じることが初めて時代錯誤でなくなったのだ」
「ハムレットの現実は……ほとんどすっかり自分で作りだしたものなのだ」という指摘は、ドン・キホーテで言えばキホーテとカルデニオの両人に(のみ)あてはまる。しかし、キホーテに内省という言葉は似合わない。彼はずっと狂気の内に閉ざされており、下巻の最後でついに内省に至るものの間もなくして死ぬ。これに対し、カルデニオは、内省的な性質のために復讐の機会を失った後、自ら山中に逃げ込んで狂気と後悔の中で生きる。
人物像にハムレットのような徹底性や魔力、魅力はないが、王子と共に内省が生き方を規定しているのは確かだ。シェイクスピア学者グリーンブラットによれば、ハムレットは「殺人という恐ろしいことを最初に思い立ってから/それを実行するに至る」「合間」に留まり続ける人物である。カルデニオはそのわずかな「合間」で逃げ出してしまうのだが、しかしそれ故にハムレット同様「心の<暴動>に悩む」ことになったのである。
二つ目は、前回記したように、シェイクスピアがフレッチャーと合作した「カルデニオの物語」がどのようなものだったか考え、ひいては「二重の欺瞞」の問題に光をあてることだ。もちろん、「カルデニオ」の台本原稿が発見されない限り、決定的な答えを得ることはできない。しかし、私見では、ティボルトの「二重の欺瞞」の真贋判定に拘泥するよりは建設的な議論だと思う。
新オックスフォード版全集の評言抜粋には「劇のアーデン版への収録は最終陳述というより、議論への生産的な刺激として作用している」との言(Peter Kirwan。私訳)が引かれている。真に生産的な議論は今ここから始まる、ということにしておこう。
次に、シェイクスピアが「ドン・キホーテ」を読んだとして(読んでいて何ら不思議はない)、自らの当たり狂言の主人公とカルデニオとの類似性に思い至ったかどうかが問題になる。実証は不可能だ。しかし、シェイクスピアが「ドン・キホーテ」を読んだとして、カルデニオに気づかないことがあり得るのか、と逆に考えてみたい。不可能ではないか。
セルバンテスが当時の世評を超えて真に優れた作家であることを、シェイクスピアは一読で理解する。そうでないとは考えられない。偉大な才能が、もう一人の傑出した才能に出会ったのである。自ら発明したハムレット流の登場人物を、このスペイン人が造り出していたことにも気づいたはず、と私は考える。自分ほどうまく扱えていないけどな、と思ったことだろう。
シェイクスピアは、スペイン語のできる若造フレッチャーが「ドン・キホーテ」を種本とする合作を提案して来た後、シェルトンの翻訳を読んだのだと想像してみる。読後、シェイクスピアは、カルデニオ主人公でいこうと言い出す。え、カルデニオですか? とフレッチャーは驚き……この辺り、再現ドラマか歴史小説風に書けそうなところだが、私はそんなことはしません。大事なのは、カルデニオとハムレットを結びつける時、失われた劇「カルデニオの物語」の姿がぼんやり浮かび上がって来ることだ。以下次回。
文献
William Shakespeare、Gary Taylorほか編 The New Oxford Shakespeare: The Complete Works: Modern Critical Edition、2016年
Gary Taylor and John.V.Nance Four Characters in Search of a Subplot: Quixote,Sancho and Cardenio 2012年(#62の文献を参照)
ピーター・アクロイド『シェイクスピア伝』河合祥一郎ほか訳、白水社、2008 年
スティーヴン グリーンブラット『シェイクスピアの驚異の成功物語』河合祥一郎訳、白水社、2006年