休止の知らせをしないまま2週間以上更新しませんでした。最後の教員仕事に思ったより時間がかかったのと、旧約聖書との格闘が終わって気が抜けたことが主な原因のようです。ぼーっとしている間に、「新型コロナ」で世界に激変の兆しが……。
頭痛は続いているものの、程度も頻度も前ほどではありません。眼鏡をかける時間が長くならないよう心がけたおかげか、はたまた、やはり旧約から頭を切り離すことができたからなのか。と言いつつ、少しだけ旧約に関連することを書きます。
経緯は省きますが、最近ヴィクトール・フランクル『夜と霧』について考える機会がありました。その際、『夜と霧』にはユダヤ教や旧約聖書について言及が殆どないことに気づいたのでした。ユダヤ人であるが故に強制収容されたことを考えると、不思議です。
1984年、フランクルはピンテス・ラピーデというユダヤ教神学者にして外交官でもあった人物と対話を行い、二人の没後(両者とも1997年没)に原著がドイツで刊行されました(2005年)。邦訳は『人生の意味と神』というタイトルで2014年に新教出版社から刊行されています(広岡義之・柴田豊彦共訳)。
この対話においても、フランクルとユダヤ教の関係については実は殆ど話題になっていません。彼自身の宗教的なエピソードは、少年時代、兄と共にヘブライ語の就寝前の祈りを唱えたことや、収容所で詩編を読むのを習慣としたことが語られるくらいです。ただし、ラピーデのユダヤ教徒としての発言に肯定的であり、最後にラピーデが祈りを唱えると、フランクルが「アーメン」と応えて巻が閉じられます。
宗教を尊重しつつも距離を置くあり方は、近代以降の「良心的」な知識人によく見られる姿勢のようにも思えます。強制収容所を体験したフランクルと、その他大勢とを一緒にはできませんが、外形的には共通点があるということです。モーセと神武のように?
ユダヤ人とユダヤ教の関係や、フランクルの『夜と霧』執筆時の思想など、問題としては面白そうです。しかし、これ以上の探究は私には困難です。広岡氏の訳者解説に、フランクルの邦訳書で宗教性が前面に出たものはこれが唯一とあります。
ここから予告です。「レワニワ図書館」に収蔵図書を追加するため、このブログの更新は間遠になりそうです。両者を並行して行うのは、現状では厳しいので。以前と同様、レワニワ図書館の更新のお知らせはここで行います。
3月3日、タイトルを表記のように変えました。予告の意味がなくなったからです(元は「最後に予告あり」でした)。