歴史学や経営史学において、個々の人間像の探るような人物研究は過去に属するもののようです。さりながら、歴史学者が、専門とする時代の重要な人物について世間の人より知識が少ないということはまずないでしょう。過去の蓄積を摂取しているからです。ところが、岩崎彌太郎の場合、彌太郎や三菱に直接かかわる分野の専門家を除けば、私の新書の内容以上の知識を持つ学者はほぼいないはずです。
そう断言できるのは、『岩崎彌太郎 会社の創造』以外、史料に裏打ちされた「伝記」がないからです(私の本の後に出たものは未見)。専門家で書く材料を持つ人はいたのでしょうが、誰も手をつけませんでした。ライバル視される渋沢栄一の方は汗牛充棟の有様なのに。会社の歴史や会社員という存在の探究においても、私の『会社員とは何者か? 会社員小説をめぐって』に匹敵する論が、それ以前にあったようには見えません(ただし関連分野の、特に調査的な研究には、上掲書は多くを負っています)。
両書は、前回述べたアカデミアの空白の存在を指し示しています。私の関心領域は彌太郎からシェイクスピアまで出鱈目のようですが、空白域の探検という点で共通してもいます。ただし、空白域を意図的に捜したことは一度もなく、関心を抱いて探究をする内に各所で未踏の場所に至ったのです。偏頗も度が過ぎています。ただし、興味が満たされれば「素人」の分を超えて何か言ったりはしません。それにしても、空白域はなぜ様々な学問分野に存在するのでしょうか?
やや古い認識かもしれませんが、医学において癌が、国文学では源氏物語に多大なリソースが割かれるというように、学問において研究者の質・量、業績に偏りがあることは周知です。しかし、空白の領域はこうした偏り以上のものなのです。彌太郎の研究が空白なのは、医学なら偏頭痛の病態が全く知られていない、とか、文学なら西行について誰も研究していないといった(あり得ない)欠落に例えることができるかもしれません。
なぜ、こんなことが起こるのか、事情は様々でしょう。空白域の研究は実績として評価されにくく、さらに過疎化するといった負の循環はありそうです。「シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?」に関して言えば、日本の学会では「二重の欺瞞」がシェイクスピアの真作なのか関心を抱いた人が殆どいなかったらしく、太田一昭先生のもの以外、日本語論文を入手できませんでした。
英語圏では、真偽問題を探るシェイクスピア学者たちのドン・キホーテへの関心が薄く、大事な論点がイギリスとスペインとを隔てる溝に落っこちてしまっています。で、極東の「ド素人」が、カルデニオ-ハムレット論という「新説」を持ち出す余地が生まれたのでした。比較文学にありがちな罠にかかった……のは私の方かもしれませんが。
前にクセノポン『アナバシス』を扱った時、戦争と女性をめぐる包括的な歴史研究が必要だと記しました。他にヘロドトスや旧約聖書からも、従軍売春婦や敗者側の女性が「戦利品」となる例をあげて。この方面で、大きな歴史的な視野からの研究は行われていないようです。将来もこの空白はなかなか埋められないはずです。東アジアでは、こうした研究は旧日本軍や「過去を反省しない日本」への批判を相対化するので忌避されるでしょう。戦勝国や中立的な国は、罪科のとばっちりがいやで、黙るのが上策と心得ています。
岩崎彌太郎や会社員の存在が学問的な空白の領域に置かれているのは、大づかみに言えばマルクス主義の影によるものと考えられます。マルクス主義の信奉する学者は多数派ではないでしょうが、その思想、あるいは党派的な影響は広く、様々な形で学問の世界に浸透しています。近現代の歴史、経済や社会にかかわる分野では特に。彌太郎や会社員について調べる内にわかって来たことです。
会社員に関して調査的な研究以上の深い考察がなされないのは、労働者と資本家という階級構造に対して、両者の対立を曖昧にする存在であることが理由だろうと推察しています。会社員をめぐって中間層という言葉が使われることがありますが、それは階級という概念があって初めて成り立つものです。こうしたとらえ方からは、たとえば会社員の起源を考えるといった動機付けは生まれません。
岩崎彌太郎を「悪い資本家」の代表、三菱財閥という悪の頭目として片づけて来たことにも同様の背景があります。渋沢栄一は善なる資本家として賞揚されますが、これは、資本家は悪だけれど、栄一のみ例外として扱うという暗黙の前提があってのことでしょう。NHK大河ドラマは、こうした階級史観の影響を強く感じさせる場合があります。
大河ドラマの渋沢栄一、岩崎彌太郎両者の描き方では、仮面ライダー栄一、ショッカーの親分彌太郎みたいな子供じみた善悪の区分がされます。制作者は、実は薄められた階級対立的な歴史観に染まっているようです。お話としては善対悪にした方が面白い。しかし、歴史を材料とするドラマにおいては、実体から乖離した不毛な再生産になってしまいます。
まして学問研究は、イデオロギーの前提ぬきに事実を究明するものであるはずです。しかし、実態はそうなっていません。学問世界に空白の領域が生まれる所以です。その存在に気づいて、最初は驚き、次いで落胆し、やがて索漠とした気持ちになりました……このテーマで三回書くと思っていたのですが、だいぶ端折りました。このテーマはどうも気分が重たくなるので、これでお終いにします。