シェイクスピアの歴史劇

物忘れや変な思い込みがひどくなったと言うと、前からそうだったと妻に返されます。主観的にはこの数年の変化なのですが。『ハムレット』は、福田恆存訳(新潮文庫)を繰り返し5回くらい読んだと記憶していました。ところが、カルデニオ-ハムレット論を書くために小田島雄志訳(白水Uブックス)を買い、初めて読んだ気でいたら、後で同じ本が書棚の結構目立つ場所にあるのを発見しました。付箋つきで。

野島秀勝訳(岩波文庫)も、やはり付箋つきで書棚に収まっていました。さすがに、同じ訳ばかり5回も読んだわけではなさそうです。しかし、福田恆存訳を何度か読み返したのも事実です。その都度、前に読んだ記憶が消えているのに驚いたことをよく覚えています。シェイクスピアの凄さを毎回新鮮な気持ちで味わえるので記憶力が悪いと得だ、と強がっていたものでした。

先日、福田恆存訳『リチャード三世』(新潮文庫)を買いました。これもすでに家にありました……積ん読でしたが。英国王の名を冠したシェイクスピア史劇は縁が遠かったのです。今回、松岡和子訳『ヘンリー四世』(ちくま文庫シェイクスピア全集31)をひもとくと既視感がありました。その源は山口昌男、高橋康也などの著作に出て来たフォールスタッフに関する記憶の残滓のようです。読んでみて、史劇を敬遠していた理由がわかりました。

どうやら、私が歴史小説や時代劇に親しんで来なかったことと同根のようです。歴史的な事実や時代的な制約を前提として認めた上で描かれる物語に、興味をひかれないようなのです。制約があればこそ描けるものがあると理解はしています。「再び恋に落ちたシェイクスピア」はまさにそうした類でした。書く快楽に私は酔いました。

しかし、私が本当に読みたい作品は、そうした制約の外れた、近代以降の自由で平らかな世界に生まれるもののようです。シェイクスピアが圧倒的な魅力を感じさせる時、近世という時代の限界は突破されます(時代の制約はなくなるのではなく、制約ごと限界を飛び越えてしまう感じ)。一方、史劇では、シェイクスピアも概ね近世以前の制約の内にとどまります。『ヘンリー八世』(フレッチャーとの合作)、『リチャード三世』、『ヘンリー四世』(全二部)だけを読んで言っているのですが(読んだ順)。

『ヘンリー八世』の終幕、王家に生まれた女の子がエリザベスと名づけられ、その赤子がやがて女王となる未来の予告がなされます。旧約聖書続編のエズラ記(ラテン語)で、イエス・キリストの誕生が予告されるのを思い出します。劇中の現在を未来人が俯瞰する記述は、書き手にも読み手にも何か甘やかな魅力を感じさせるようです。

しかし、こうすることで、未来は現実の「今」の中に厳重に閉じ込められます。劇のはらむ可能性が、未来という名の現在に呑み込まれてしまうのです。こうした叙述は、時代の厳しい制約を目に見える形で示すものとみなすことができるでしょう(終幕を書いたのはフレッチャーとされます)。一方、自由で平らかな現代世界においては、劇中でこうした予言をしたところで、等身大か精々ファミリーサイズの未来を占う薄弱な言葉にしかなりません。

では、私たちは何が書けるのか? 何でも書けるはずなのです。自由で制約のない現代の表現の空間……実際には、そのような場所はありません。よく言われるように、空気の抵抗がなければ鳥は空を飛べないわけで。しかし、封建時代の制約を現代のそれとは較べられません。個人と自由が尊重される現代世界において、表現の場の空気は薄いようです。このため、書き手は想像力の翼を広げつつ、一方で高く飛ぶためによい塩梅の抵抗を捜そうとします。これこそ現代文学の醍醐味?

シェイクスピアは逃れられない制約の醸す濃密な空気の中で、時にそれに従い、時にそれを跳躍の踏み台にしたのでした。……どうも迷走気味なので、ここらでやめまておきます。私の中でシェイクスピア史劇の像はまだ熟していないようです。機会をみて再度挑戦したいと思います。何しろ、「馬をくれ! 馬を! 代わりにこの国をやるぞ」というリチャード三世の科白が耳から離れないのです。王位の簒奪者、最悪の敵役だったのに、最後の最後にこの言葉を吐き出し、一瞬で最高に魅力のある主人公に変身します。シェイクスピアの魔術!