日本書紀の中に「『平民』の姿が一瞬だが垣間見える」理由について、#6を書いた後になって、岩波古典文學体系の解説にヒントがあるのを発見した。書紀には、「地方諸国の名もない人々の間に伝えられたもの」が記録され、「何らかのルートによって書紀編修の史局に集められた」と考えられるケースがあるようなのだ。「名もない人々」って、名前はたいてい誰にもあったんじゃないの? と突っ込みたくなるが、これは史書の上で無名ということであって、このブログ中で私が「平民」と書き、記紀で「百姓」と記すのとほぼ同じ意味だろう。
この歳まで読む機会のなかった書紀に触れて、最初に驚いたのは「一書に曰く」として、本文の後に異聞がいくつも書き連ねられていたことだ。「正史」の中で正典を相対化してしまうとは、何という大胆なポスト・モダン、ポリフォニック(多声的)! と頓珍漢な驚き方をしてしまった。本当に不勉強で御免なさいですが、こうした書き方は、素人の私が知らないだけで、古い史書のありようの一つなのか、書紀に固有あるいはごく珍しい例なのか、判断できない。ちなみに、「一書に曰く」は、巻第三(神武天皇)以降、書紀から殆ど消えてしまう。
先に書いたとおり、私には書紀が明るく、軽いと感じられたのだが、風通しの良いポリフォニックな構成はその理由の一つになっている。また書紀に「地方諸国の名もない人々の間に伝えられたもの」が記録されたことも、多声的な構成要素の一つと言える。重ねて無知を恥じつつ記すのだが、上記解説によれば、書紀はその文体によっていくつかに区分することができ、それぞれ違った作者グループによって書かれたと推測されているのだそうだ。「一書に曰く」と書きつけた「書紀のポスト・モダン派」は、巻第三以降、少なくとも大きな関与はしていなかったことになる。
いくつかのグループ、多数の執筆者によって書かれたことが、書紀の内容にどう関わるのかは私には分からない。また今は関心の対象ではない。ただ、共同執筆が明るさ、軽さの一因であることは確かなようだ。古事記が重苦しく、暗い印象なのは(それは別に欠点ではない)、読者が稗田阿礼と太安万侶の造り出した世界から外に出られないことが作用していると思うのである(同時に、このように対比できる二つの史書があるというのは、何と興味深いことか、と改めてしみじみする)。
書紀の共働執筆者には、渡来人や帰化人が含まれているとされる。インテリ同士の共同作業となれば何かと争いや葛藤が起こりそうなものだが、私にはそんな痕跡は見つけられない。あっけらかんとドライな感触の史書を読んだという印象だ。いや、中身は殺戮やら裏切りやら大変なことが一杯だし、「万世一系の天皇制イデオロギー批判」の視点で読む人には、書紀こそが暗く、閉鎖的ということになるのかもしれないが。……イデオロギーの話はやめておく。迂路ではなく迷路に入り込みそうだ。実はこの辺のことを10行ほど書いて迷宮入りを予感し、カットすることにした。なので、この章は、ここで終わり。