レワニワ図書館に自らの小説やエッセイを掲載すると決めてから、校正・校閲をどうしたものか悩んでいました。作品の質については私自身が責を負えばいいし、誰でも無料で読めるのだから売ってもらう必要はありません。
出版社の仕事でいえば編集と営業は、この際なくていいわけです。一方、校正・校閲はどうあがいても自分ではできません。第三者の目を入れずにミスを見つけることは困難です。誤字脱字が目立っては読者に失礼ですし、無料であることや読者の数がごく限られることは言い訳になりません。読者はその人の限られた貴重な「資源」である時間を消費するのですから。
私の考えるネット図書館は、別の見方をすれば、出版社を介さないネット出版のシステムと言えます。そのシステムにおいて編集作業が省かれるのは残念ですが、だからといって「本」を出せないということにはなりません。しかし、校正者の目を通さない「本」は、原則を言えば、世に出るべきではありません。
こう考えると、校正・校閲の仕事は、出版という事業において大変に重要であることに気づきます。実際、校正・校閲がきちんとできることは、出版社にとって最大の価値の一つなのです。
なのに出版社の中で、校正・校閲部門の評価は高くないことが多いようです。「不採算部門」として経費削減の対象になったり、ベテラン校正者が待遇面で評価されなかったり。校正・校閲部門の廃止というドラスティックな改革の噂さえ聞いたことがあります。その後どうなったのか聞こえて来ないのは、外聞が悪いので内緒にしているからでしょうか。
私の妄想の中では、ネット図書館において校正・校閲を仕組みとして取り込み、それが校正者と書き手双方のためになるシステムがすでに考えられています。この「システム」については、また別の機会に触れます。さて、レワニワ閲覧室に配架されている私の「本」の校正はどうだったかというと……。
レワニワ閲覧室の蔵書の解説にある通り、『マント』と『簡単な生活』は校正者の目が通っていません。代わりに、私の目は校正にはまるで不向きの節穴だという自覚があるので、各々10回ほど見直しを行いました(校正は普通は多くても三校まで)。もちろん、回数が多くても、本物の校正者の代わりにはならないわけですが……。
『それ』は、プロの校正者である妻に見てもらいました。え? だったら端から奥さんに校正してもらえば良かったんじゃないの、と思われるかもしれません。しかし、そうはいかないのです。彼女はベテランの校正者であり、フリーの立場ですが仕事が途切れることはほとんどありません。
だから、たまさか訪れる不意打ちのような休みの日にまで、校正をやってもらうわけにはいかないのです。それじゃあ休みになりません。『それ』は、滅多にない、ある程度長い休暇が取れた時、「ヴォランティア」としてやってくれたのでした。
妻は、プロとしての仕事のように、長時間集中してやったわけではありませんでした。それでも、校正者の目が通っていると言うことはできると考えています。実は先に私が、一応ちゃんと見たつもりだったのです……が、指摘だらけで、あまりのレベルの違いに愕然とさせられたことでした。