「聖書、読もうぜ」

マコーマック『雲』について書いている間、頭痛は軽くすみました。頭痛と旧約聖書の間に関係があるのかも、と少し疑っています。もう一つ証拠が加わったようでもありますが……読書や執筆は、高地への旅のようなものだと考えることにします。頭痛を怖れていては到達できない場所があるのです。

旧約は読むのも苦労しますが、それについて書くのも一筋縄ではいきません。書名をどう表記するかという最初の一歩から問題が生じます。ご存じのように、旧約聖書とはキリスト教側からの名称です。主とユダヤ民族との間に結ばれた契約は、イエス・キリストによって新たに結び直されたので、古い契約に関わるのは旧約、新たな契約に関するものが新約というわけです。もちろんユダヤ教はこれを認めません。ユダヤ教で何と称しているかは、別項で。

主ヤハウェと契約を結んだ人々を何と呼ぶかも悩ましく(ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人)、彼らの宗教がユダヤ教と呼ばれるようになる以前の「宗派」を何と記すべきかを含め、厳密さを求めるとそれこそ頭が痛くなります。一番面倒(と言っては失礼ながら)なのは、旧約聖書がキリスト教のものとして長く受容されて来たためか、扱い方について外からは見えにくい「作法」があることです。ケン・スミス『誰も教えてくれない聖書の読み方』は、この有形無形の聖書バリヤを一刀両断してくれました。

キリスト教的聖書作法の第一は、極端に言えば、聖書を、特に旧約聖書を「読まない」ことです。カトリック系大学で神父の教師から聖書の授業を受けた人の話によれば、授業で扱う箇所はラインを引く場所まで指示され、授業中ただの一度も自ら聖書を読むようにとは勧められなかったとのことです。訳者の山形浩生氏は、教会の「日曜学校……では聖書のおいしい、こぎれいなところだけを取り出して、そこばかり何度も読ませる」と書いています。聖書を本当には読んでいないことにかけては欧米人も同じことなのだ、と。

だからこそ、スミス氏の「揚げ足取り」が成り立ちます。「聖書を使って自分の宗教的・政治的目的をとげようとする連中は、聖書のいかれた部分を隠しちゃってる」「ぼくやきみの聖書っぽい話に関する無知」のおかげで、教会関係者の「うまい宣伝」は成り立っている。で、スミス氏は「座布団の下に押し込まれた部分についてのガイド」であるこの本を書いたのです。「預言者や使徒だってたまにはいいことをいう」などと記しつつ。

山形氏は、本書のメッセージを「聖書、読もうぜ」だと言います。この本はアンチ・キリスト教ではないし、ましてアンチ聖書では全然ありません。非信者の興味をかき立てる点では群を抜いていると思います。ただ、キリスト教的聖書ガイドとは別の銀河宇宙くらいかけ離れているのも確かです。たとえば、雨宮慧氏の『旧約聖書 図解・雑学』は手堅い内容で、カラー図版の美しさには目を見張ります。しかし、この本では、聖書刊本の素晴らしい特長である章や節にふられた番号の記載が殆どありません(「章・節システム」のおかげで外国語版の参照などが容易にできる)。つまり解説を読み、図や表を見ていれば旧約本体は読まなくても満足できる作りであり、読まないで済ませたい人のための旧約案内なのです。

最近、『聖書の読み方』という同題の2冊に目を通しました。北森嘉蔵氏著(講談社学術文庫)には、聖書は「あくまで・・・・信仰の書物である」と書かれています。旧約と新約の関係を透かし模様にたとえることも含め、キリスト教的読解が徹底されたものと感じました。

大貫隆氏著(岩波新書)はより具体的な読み方を提示します。「目次を無視して、文書ごとに読む」「異質なものを尊重し、その『心』を読む」など。北森氏の本より聖書への入門の間口を広げている感じですが、ここでもキリスト教的バイアスはあって当然のものとされています。両書とも、キリスト教的な聖書理解へと誘う本なのです。

こんな風に注文をつけていると、聖書は本来信者のものなのだから、非信者が文句を言う筋合いではない、だったら読むな、と言われそうです。しかし、それは違うと私は考えます。聖書は信者だけのものとは言えない大きな社会的影響力を持っています。非キリスト教国であるこの日本でもそうなのです。ならば聖書に対する「批判」はあってしかるべきであり、必要でもあります。次回、その根拠を示します。