キホーテ、カルデニオ、ハムレット(1)  #62

シェイクスピアは、『ドン・キホーテ』の登場人物カルデニオにハムレットの面影を見いだしたのではないか? それが昨年1月に私の立てた問いだった(#29#33を参照)。答えを見つけようと、まずこの疑問に関わる著作や先行研究がないか捜した。吉田彩子先生(#33参照)にメールで文献を教えていただくなどして、スペインの側からの問いかけはないだろうという判断に至った。

では、イギリス側からはどうか? なさそう、というのが現時点での答えである。となると、カルデニオとハムレットを結びつけたのは、私の妄想なのだろうか? そうとも言えない、という結論にたどり着く探究の道行きについて、これから語りたい。私にとって、実にとんでもなく面白い旅だったのである。

シェイクスピアに関しては、汗牛が充棟したビルで大都市を形成されるくらい多くの文献・研究がある。そうした中、「カルデニオ」は研究の中心街からはやや遠いものの、それなりに人の出入りの多い一棟である。シェイクスピアの作品中「カルデニオの物語The History of Cardenio」は上演歴は確かだが、台本の残っていない「失われた劇ロスト・プレイ」であり、これを発見しようと追求・探究が長く行われて来たのである。まずそのことを私は知った。

台本が残っていないのなら、私の「妄想」は肯定も否定もされないことになる。だが、このロスト・プレイ問題については、ほぼ決着がついている。2010年、シェイクスピアの正典とされるアーデン版The Arden Shakespeareシェイクスピアから『二重の欺瞞、Double Falsehood or,The Distressed Loversあるいは苦しめられる恋人たち』が出版され、この戯曲がシェイクスピアの「カルデニオの物語」(ジョン・フレッチャーとの共作)に基づくものであると大筋で認められたのである。

この『二重の欺瞞』が、シェイクスピアの手が加わったものと認められるまでの経過自体、非常に興味深いのだが、本題ではないので、必要な事項だけを取り上げる。ちなみに、#33で「『第二の乙女の悲劇』なる作品が、シェイクスピアの『カルデニオ』に比定されることもあるようだが、内容からして大して関係があるとは思えない」と書いた。この説は推測通りほぼ完全に否定されている。

1612年、トマス・シェルトンによる「ドン・キホーテ」英訳が刊行され、翌年ロンドンで「カルデニオの物語」が上演された。私はそのことを知って、「シェイクスピアはドン・キホーテを読んでいたのだ!」と書いた(#29)のだが、そうとは断言できないことが判明した。こういうことである。「ドン・キホーテ」の人気は1605年の刊行直後から想像を絶するほどに盛り上がり、すぐさまヨーロッパ各国に広まった。イギリスもその例外ではなかった。

文化、言語は「高所」から「低所」に流れやすい。当時、イギリスの教育のある階層においてスペイン語ができることはクールだったらしい。スペインは16世紀ヨーロッパの覇者であり、イギリスは無敵艦隊を破ったものの、当時なお下風にあった(一方で、ムーア人との混血やカトリックによる絶対的な教権支配など、後に「黒い伝説」と称されるスペインに対する偏見もあった)。

だが、「ドン・キホーテ」はスペイン語ができる階層にだけもてはやされたのではなかった。英国内では、すでにトマス・キッド作とされる戯曲「スペインの悲劇The Spanish Tragedy」が16世紀末に人気を博していた。こうした土台の上に「ドン・キホーテ」の評判が高まったので、シェルトンの英訳は、書物として刊行される前から手書きの写しとして流布し、「ドン・キホーテ」を題材とする劇が上演されていたのである。

共作者フレッチャーはスペイン語を読むことができたようだ(一方、プロテスタント聖職者の家の出で、アンチ・カトリックでもあった。日本嫌いの日本在住海外特派員のようなものか?)。つまり、シェイクスピアは、翻訳を読んでいなくても、公演を見たり、フレッチャーのスペイン語力をたのんだりすれば、「カルデニオの物語」の共作者となることが可能だったのである。

しかし、やはりシェイクスピアは「ドン・キホーテ」を読んでいたと考えるべきだ(スペイン語はできなかったようなので翻訳で)。そのことはカルデニオの名を冠した戯曲が、別タイトルで現代にまで伝わることになった内容の改変とかかわっている。また、この改変は、先述のカルデニオ-ハムレット仮説論証の材料になり得ると私は考えている。

上記は#51で、また前回、予告した「ドン・キホーテはなぜ面白いのか」をめぐる考察の補遺である(次回以降も続きます)。補遺を書くにあたって、以下の文献を参照した。

David Carnegie・Gary Taylor 他 The Quest for Cardenio Shakespeare, Fletcher, Cervantes, and the Lost Play、Oxford University Press、2012年。多くの論考の集成であり、参照・引用に関して個々を抽出すべきところだが、煩瑣を避けるために当ブログでは見送ることにした。

Roger Chartier Cardenio between Cervantes and Shakespeare The Story of a Lost Play、Polity Press、2013年。Cardenio entre Cervantes et Shakespeare ガリマール出版社、2011年刊の英語版(Janet Lloid訳)。シャルチエはアナール派の歴史学者で、読書史、読者史などを専門とし、上のThe Quest for……にも論考を寄せている。

高橋康也他編『研究社 シェイクスピア辞典』研究社出版、2000年。やや古いが、手許に他に利用可能な辞書がないので、人名表記等は多くこの本によった。ただし、カルデニオはそのままとした(辞書中では「カーディニオー」)。