自作について語ること


 サクランボ猫

3月末、ドン・キホーテと風土記の補遺を書くための準備が始められそうと書いたのですが(こちら)、前者について進展がありました。去年買っておいた本を読んだところ、一挙に視界がクリアになったのです。だったら、とっとと読んでおけよというところですが、英語版なので億劫だったのです。

コロナの現実から逃避しようと、ナボコフPale Fireに頑張って取り組んだおかげで横文字本への耐性が鍛えられ、ずいぶん楽に読めました(ブログの更新が途絶えるぐらいには集中し、眼痛も再発したわけですが)。研究系の本、さらに翻訳書(原書は仏語)であることも奏効したと思います(翻訳は原文より分かりやすくなるのが普通)。ただし、求めていた答えを得たということではありません。

ドン・キホーテを読んで推察したこと(こちらこちら)が、可能性として生きる余地があると判明したことが大きな成果でした。また、私がウダウダ、グダグダ考えたり、書いたりしていることは、専門家や学者が考えない方向で何かを見いだす時に意義があるのだと確信(再確認)できたことも収穫です。ただ、補遺執筆はもう少し「研究」を深めてからにします。今回の本編は、自作を語ることについて、『女神の肩こり』自作解説の続きにして最終回です。

自作解説を書き出すのに難渋したことは先に書きました(こちら)。その根本に自身や自作について語ることへの躊躇があるのは間違いありません。さらにその元には……と原因を探る玉葱の皮むき作業はやめましょう。大学で創作のクラスを持っていた頃、自作についてとうとうと語る学生が少なからずいて、そういう受講者がいるのは想定内だったので驚くと言うとオーバーなのですが、戸惑いを感じていたのは事実です。

言い訳みたいで格好悪いし、そもそも自分の中でうまく整理ができないことがあるからこそ創作しているのじゃないか……と私は考えているわけです。が、そう思わない書き手がプロアマ問わずいることも承知しています。なので、作品そのものをして語らしめよ、と大上段の建前は滅多に口にはしませんでした。それでも苦手なものは苦手、教員の権力を行使して(?)、話が長くなりそうだと端折らせたり、そもそも自作語りができないようコントロールしたりだったので、結構、嫌われていたと思います。

なのに『女神の肩こり』では、自作について長々語ってしまいました。宗旨替えでしょうか? 違います。この先自作について多言を用いることはありません。たぶん。自分自身や自作を語ることに、いささかの喜びを感じていたのもまた事実です。しかし、恥ずかしさの方が優っていましたし、後悔の気持ちは今も拭えません。

では、なぜ自作解説をしてしまったのか? 答えは実は明快です。『女神の肩こり』をあのような形で書いたことが、自分でも不思議でならなかったからです。ギリシア神話を題材として借用しコメディを書こうと思っていたのに、旧約聖書の世界から唯一神が当たり前のようにはみ出して来て、物語を勝手に占有しました。全くの意想外で、書きながら最後まで面食らっているような状態でした。

この不思議な経験を謎のままに放置できず、いったい自分が何を書いたのか、自註をつけることで一歩一歩足跡を見直してみたくなったのです。当ブログ中「その本はなぜ面白いのか」では、主に古典を対象に、読んでいる内に自分で見つけた問いについて考えることを続けて来ました。

ターゲットの大きさには雲泥どころではない差がありますが、『女神の肩こり』自註においても、同じ方向に私は動かされていたのでした。自ら見いだした問い対して、よく考え、よく調べ、及ぶ限り力を尽くして答えを捜すこと。これは私にとって一つの娯楽です。私の知る限り、これ以上はない娯楽です。

画像は『女神の肩こり』セラミック・アートの作者Shoko Teruyamaと娘Imari(7歳)の共作の続き、「Quarantine project」の一作です。Shoko&Imari ©2020