キホーテ、カルデニオ、ハムレット(2)  #63

国会図書館に遠隔複写を依頼していた太田一昭九州大学名誉教授の論文「『二重の欺瞞』の作者同定と文体統計解析」が届いて読むことができた。結果、カルデニオとハムレットの間に縁戚関係を見つける意義に確信を深めた一方で、「立論」の方向性は変えることにした。

つまり、(1)にあげたゲイリー・テイラーらによる著書中の論文に依拠し、それをカルデニオ-ハムレット説の骨組みとして論述しようと考えていたのだが、この計画は捨て、文献から得た知見を活かしながらも、それらは主に自説を補強する材料として使用することにした。

これら論者は、「二重の欺瞞」が、18世紀のシェイクスピア全集編纂者であるルイス・ティボルドによる偽作とみなされることが多かったのに対し、新史料の発見やコンピュータを活用した研究によって定説を覆し、シェイクスピア(とジョン・フレッチャーによる共同)の作品として、シェイクスピアの正典とされるアーデン版、新オックスフォード版(断片として収録)が出版されたのだった。

シェイクスピア作品のデータベース化が進み、その解析から、表面上は分明でないシェイクスピアの文体の特徴を明らかにできるようになった。彼らは、そうした文体上の特徴と、共作者フレッチャー、フレッチャーと(シェイクスピアを含む)他の作者との共作、さらにティボルド(自身劇作者でもあった)についても文体統計解析の手法を使って比較検討し、「二重の欺瞞」にシェイクスピアの手になる部分が少なからずあることを「証明」できたとした。

たとえば、コンピュータによるデータベース化、文体統計解析の手法などは、当然ティボルドが偽作に利用したくてもできなかったはずなのに、そうした手段抜きでは「再現」できないシェイクスピアの文体上の特徴が「二重の欺瞞」には見られるというのである。説得力があるように私には感じられたのだが、太田氏の上記論文では、統計数値の取り扱いの不備やサンプル抽出に偏りがみられることなど、論者たちの方法には多くの問題があると述べる(新史料も証明にならないと一蹴)。

ただし、以前の私の想像とは違って、太田氏の主旨は「二重の欺瞞」を偽作とすることではなく、シェイクスピア作とする上記論者らに対し、そうした研究がシェイクスピアの真作とするには不十分であることを示すものだった。その上で、サンプル数の不足や演劇台本が様々な人の手で上書きされるのが常だったことを考慮すれば、文体統計解析的な手法で「二重の欺瞞」をシェイクスピア作品と同定することは、今後も不可能だろうと結論づけている。

私には太田氏の批判、またテイラーらの論文について、その正誤、優劣を決める力はない。ただ、後出しジャンケンめくので言いにくいのだが、実はQuest for Cardenioを読んで、「二重の欺瞞」が1613年に初演された「カルデニオの物語」の正嫡だと納得させられたわけではなかった。テイラーらの論の立て方や筆致に、信頼を躊躇わせる何ものかを感じたからだ。その印象は、先日アーデン版『二重の欺瞞』の編者ブリーン・ハモンドによる長いイントロダクションを読んだ際も同様だった。

一方で、Quest for Cardenioに併載されたテイラーらへの批判論文にも説得力は感じなかった。で、「権威筋」によるシェイクスピア作とのお墨付きに乗っかることに決めたのである。しかし、太田氏の論文を読んで考え直した。そもそも「二重の欺瞞」の真偽は、長い歴史を誇るシェイクスピア産業内部のゴシップのようなものだ。しかも作品の最大の論点は、悲しいことに、シェイクスピアの真筆かどうかなのである。シェイクスピアの手が入っているか否かで価値が決まるとしたら、その作品は大したものではない。

問題は、1613年初演の「カルデニオの物語」がどんな作品であるか、そこにシェイクスピアがどう関わったかであるはずなのだ。台本が失われたために、ティボルドがシェイクスピアゆかりの原稿を元に編集したと主張する「二重の欺瞞」の真偽が議論の的になったわけだが、本来は副次的な問題だ。それが、「カルデニオの物語」を「再現」するのに役立つかが問われるべきなのである。

だが、「二重の欺瞞」の真偽を究明しない限り、「カルデニオの物語」がどんな劇だったか見当をつける術すらないと思われるかもしれない。比定できる別の作品が知られていない以上、「カルデニオの物語」に至る道は他にないように見えるからだ。そうだとしたら、それは探求者たちの怠慢による落ち度である。

1613年初演の「カルデニオの物語」に接近するための別のヒントが眼前にある。他でもない、セルバンテス作「ドン・キホーテ」だ。これにシェイクスピアの手が加わってイギリスで上演された時、カルデニオという脇役が、その名をタイトルとして主役に躍り上がった――ここには大きな亀裂があり、飛躍がある。しかし、論者たちは殆ど注意を向けようとしない。大部のドン・キホーテからカルデニオのエピソードが特に選ばれたことへの推論は、どれも弱々しい。

彼らは、セルバンテス「ドン・キホーテ」や登場人物であるカルデニオと、演劇作品「カルデニオの物語」の関係について、探究心をほぼ持たなかったように見える(ロジェ・シャルチエは少し例外)。手落ちだろう。なぜカルデニオなのかと真剣に考える時、「二重の欺瞞」の問題に逆方向から照明をあてることもできるからである。そして、ここでハムレットを持ち出せば……ようやく私の本論に戻って来たようだ。以下、次回。

文献リスト
太田 一昭「『二重の欺瞞』の作者同定と文体統計解析」、Shakespeare Journal Vol.4、日本シェイクスピア協会編、2018年
Lewis Theobald (著)、Brean Hammond (編集),、William Shakespeare (原著)、Double Falsehood Or The Distressed Lovers 、Bloomsbury Arden、2010年