前回購入の報告をした『自閉症は津軽弁を話さない リターンズ』、興味深い情報に触れられた点は良かったものの、全体に薄味で、勝手にこちらで高めていた期待値に届きませんでした。時間がかかっても、さらなる高みを目指してほしいと思います。上からみたいですみません、と再び勝手に、謝りつつ。
今回の本題はセルバンテスの「模範小説集」です。ドン・キホーテは知られていても読まれることの少ない小説と枕詞のように言われ、「模範小説集」に至っては、ドン・キホーテをめぐる話題として以外には語られることすら稀なようです。私自身、ドン・キホーテの面白さを考えると言いながら、「模範小説集」を参照することは殆どありませんでした。図書館での「出遭い」がなければ、この時期に読もうとしてはいなかったでしょう。
それは私の怠惰のせいでもありますが、これまでの翻訳の事情もかかわっていると記しても言い訳にはならないはずです。「模範小説集」を読むには、大変とまでは言わないとしても、ちょっとした困難があるのです。現在Amazonで入手できる版と収録作品を最下段に列記します。この情報は、私の知る限り、これまで整理された形で示されたことがありません。
牛島信明訳『セルバンテス短編集』こそ、実は「模範小説集」を読む際の躓きの石です。文庫版で入手しやすいために、「模範小説集」はこれを読んですませてしまう人が多いのでは、と推察します。私がそうでした。牛島訳ドン・キホーテは、このおかげで通読できたと賞賛する声を多く聞きますし、私にとっても最も読みやすいと感じた訳でした。その牛島氏が選んだということも一因となって、「模範小説集」はこれですましてもいいだろうという動機が生じやすいのです。
というのも、正直なところ、三作とも面白くないわけではないけれど、大いに魅力的とまでは言い難い小説なのです。しかも、小説集中の他の作品にあたろうとすると、これが簡単ではありません。私がこの短編集を読んだのは2008年頃のようですが、この時点では1993年に出た国書刊行会版が入手できる事実上唯一の「模範小説集」でした。本体定価5631円と高価な上に、「模範小説集」全十二作の内八作しか掲載されていません。「セルバンテス短編集」と三編ダブっており、原典版から四編が省略されています。どちらにしろ全部読めないなら、文庫ですましておこうとなって当然と思えます。
2012年に樋口正義訳が出て、ようやく「模範小説集」が日本語訳で全作品読めるようになったのですが、私は図書館で「出遭う」までこのことを知らなかったようです。実は三年ほど前、図書館で国書刊行会版を借りて文庫版にない五編を読んでいました。しかし、いくつかを今回読み直してみて(ほぼ新品の初版本をAmazonでほぼ半額で購入)、あまりに忘れている部分が多いことに愕然としました。どうやら3年前も、「模範小説集」はさほど心に響かなかったようです。なので期待せずに樋口訳を開いたのでした。
すると、冒頭の短編「コルネリア夫人」の導入部分が巧みで、先を知りたくなりました。スペイン貴族の若者が留学先のイタリア、深夜のボローニャの街で突然赤子を預かってしまい、続いて多勢に追い詰められている貴族の男を助太刀したところ、なくした自分の帽子の代わりに高価な飾りのついた帽子を渡されて……。
図書館から帰宅後にAmazonで注文し、届いてみると美しい造作の本でした(それだけでも本体2600円の価値あり?)。冒頭の一編は、最初の印象と違い、読み終えて牛島氏が選ばなかったのも納得と思ったのですが、残りの三作でこの評価は覆って、そうなるとドン・キホーテの面白さを考えるというこのブログの大本のテーマとの関わりにおいても、色々と考えることがありました。以下、次回。12月12日に「『模範小説集』の日本語訳リスト」から改題しました。
<セルバンテス「模範小説集」邦訳各版の収録作品>
牛島信明訳『セルバンテス短編集』岩波文庫、1988年:やきもちやきのエストレマドゥーラ人、ガラスの学士、麗しき皿洗い娘(他に「ドン・キホーテ」から「愚かな物好きの話」を独立の短編として収録)。
牛島信明訳『模範小説集』国書刊行会、1993年:ジプシー娘、リンコネーテとコルタディーリョ、ガラスの学士、血の呼び声、やきもちやきのエストレマドゥーラ人、麗しき皿洗い娘、偽装結婚、犬の会話。
樋口正義訳『セルバンテス模範小説集』行路社、2012年:コルネリア夫人、二人の乙女、イギリスのスペイン娘、寛大な恋人。
樋口正義他訳「模範小説集」『セルバンテス全集』第4巻、水声社、2017年:ジプシー娘、寛大な恋人、リンコネーテとコルタディーリョ、イギリスのスペイン娘、びいどろ学士、血の力、嫉妬深いエストレマドゥーラの男、麗しき皿洗い娘、二人の乙女、コルネリア夫人、偽りの結婚、犬の対話。付録として、にせの伯母さん―一五七五年にサラマンカで起きた真実の物語。