模範小説集」タグアーカイブ

ドン・キホーテに再見?

さらば、と挨拶したのに、すぐに引き返して来ました。訂正すべき事項が見つかったのです。12月5日の投稿に「模範小説集」の邦訳刊本リストを掲載した際「この情報は、私の知る限り、これまで整理された形で示されたことがありません」と記しましたが、ありました。集英社文庫の「ポケットマスターピース」シリーズの『セルバンテス』の巻、三倉康博氏による「著作目録」で提示されていたのです。

同書には「模範小説集」から吉田彩子氏訳による3編が掲載されているので、これを足した改訂版リストを下に載せることにします。そんなことを考えていたら、私が勝手に6編を選んだ仮想文庫版『模範小説集』の帯につけるキャッチフレーズを思いつきました。「ドン・キホーテより面白い!

冒涜的な気もするので、「ドン・キホーテよりも面白い!?」とすべきか……でも、満更嘘でもありません。面白さの分かりにくいドン・キホーテより気に入る人がいても、不思議ではないと思います。ただし、ドン・キホーテを書かなかったら、「模範小説集」の作者の名を知る日本人はスペイン文学者以外いなかっただろうことは再確認しておきます。 続きを読む

作者セルバンテスの発見  #68

私は影の中にいます

予定を変更して、今回は「その本はなぜ面白いのか?」の続き#68とする。このブログは舵のない船のようにさまよい続けているのだが、時々(私にとって)目の覚めるような発見という椿事が起きる。実は「模範小説集」の続き(5)を半分近く書いており、なお牛島信明氏に焦点をあてるようなことになって、葛藤が生じていた。

批判ばかりしているみたいで、と一人勝手に悩みつつ関連の文献を読んでいたら、突然もやが晴れて……いや、そうではない、もやの中にいるのは変わらないのだけれど、辺りが突然明るくなったのである(旧約聖書の時のもやが晴れる「発見」とは違う事態のようだ)。その後、いい湯加減のお風呂につかっているみたいなほんわかした気分になり、二日ほど何も書けなかった。その間、見たわけではないが、私はにやついていたと思う。

何が起こったのかうまく摑めていない。すごく単純な事態であるようにも思える。いま思いついたままに記せば、私はセルバンテスを発見したのかもしれない。斬新なセルバンテス像を見出したとか、そんな立派な話ではない。専らドン・キホーテに興味があったはずなのに、セルバンテスという作者が突然私の頭の中に入り込んで来たのである。それは、なぜドン・キホーテは面白いのか、なぜ面白さが謎であるのか、というブログのそもそもの問題意識と直かに結びついている。 続きを読む

リアルで古風な物語群 模範小説集(4)

前回、樋口正義訳『セルバンテス模範小説集』解説の控えめなようで実は厳しい牛島信明氏批判にやや深入りしました。その余録で、牛島氏の提唱する小説集作品の分類がどうにも頭に入って来なかった理由を自分なりに理解し、記すことができたのは思わぬ収穫でした。もう少し続けます。牛島氏は岩波文庫版『セルバンテス短編集』(1988年)を編むに際し、自らのセルバンテス観に従って作品を選び、解説を書いています。一見当然のようですが、問題がありました。

この小説集は、文庫版出版後も「名ばかり聞こえてほとんど読まれることのない」状態が続きます。恐らく現在も。(1)で記したように、一般読者にとって牛島氏編の短編集は「模範小説集」に入門する際の躓きの石になり得ます。そもそも、ドン・キホーテから一部を抜き取って短編集に収めたこと自体、「模範小説集」の作品の価値が低いのではと邪推させる誘因になったはずです。私はそう思った覚えがあります。

解説で、「リンコネーテとコルタディーリョ」は過大評価されて来たと牛島氏は述べます。しかし翻訳がないので、日本人の読者は牛島氏の説の当否を判断できず、ただ拝聴するしかありません。氏はまた、「セルバンテス独特のさりげないユーモアとか、きびきびとした会話」については一読して瞭然だから、と触れません。ユーモアや会話の妙は作品の魅力となる一方、時代の変化を被りやすい性質を持ちます。出版当時400年前の作品の事実上唯一の翻訳だった刊本の解説としては不親切に思えます。 続きを読む

「愛」と翻訳の真実 模範小説集(3)

前回、セルバンテスの作品が古びないのは強靱な文体が備わっているから、と書きました。当然、強靱な文体とは何か、また同時代の他の作家との比較してどうかなどを論じるべきなのでしょうが、私の書き方では無駄に長くなります。ここでほんの一部分を引いてすませることにします。「模範小説集」中の屈指の作品、悪漢小説「リンコネーテとコルタディーリョ」の一場面です。

《丸ぽちゃ》と呼ばれる女が、盗賊一味の愛人から暴力を受けて苦しんでいると頭領に訴えます。すると、同様の目にあった訳知りの女が《丸ぽちゃ》に問いかけます。その男は「あんたを折檻し、ひどい目にあわせた後で、あんたのことを少しは愛撫しなかった?」《丸ぽちゃ》が答えます。「少しはですって? ……それはそれは何度も何度もしたわ……だいいち、さんざんあたいを打ちのめしておきながら、涙ぐんでさえいたんだから」(牛島信明訳)

DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)という悲しい「愛」のありようが、ここで時も場所も超えて表現されているわけですが、セルバンテスはその真実の姿を二人の女が交わす生き生きとした会話の形で描き出しています。このような軽快でありながら芯の強さと深みを感じさせる文章は、前回名前を出した「にせの伯母さん」や、私が読んだスペイン黄金世紀の戯曲のいくつかには見出せませんでした。閑話休題。これからが今日の本題です。 続きを読む

寂しい森の楽しい散歩 模範小説集(2)

樋口正義訳『セルバンテス模範小説集』を読んで気づいたことが、いくつかありました。まずは、ドン・キホーテはセルバンテスの作品の中でやはり傑出したものだということです。「模範小説集」は決してつまらなくはありませんが、ドン・キホーテの作者の作品でなければ、小説集が単独で日本語訳されるなどということはなく、セルバンテスはスペイン黄金世紀の群小作家の一人という扱いだったでしょう。

ドン・キホーテ前・後編でなされた飛躍はそれほど大きなものでした。飛躍とは、煎じ詰めると、キホーテというとんでもない「偉大な人物」を創造したこと、キホーテ、サンチョの主従という絶妙のコンビを発明したことになりそうです。

これを書く前、セルバンテス作の戯曲をいくつか読んでみました。すると、「模範小説集」でも同様だったのですが、次第に寂しい森をさまよっているような気分になって来ました。いくらページを繰っても、キホーテ主従ほどの魅力ある人物に出くわさないのです。そうした作品群は、ドン・キホーテという高峰の裾野に位置して、その高さを指し示してくれているかのようです。しかし、裾野の森を巡り歩くことにも楽しみはあります。 続きを読む

「模範小説集」邦訳リスト 模範小説集(1)

前回購入の報告をした『自閉症は津軽弁を話さない リターンズ』、興味深い情報に触れられた点は良かったものの、全体に薄味で、勝手にこちらで高めていた期待値に届きませんでした。時間がかかっても、さらなる高みを目指してほしいと思います。上からみたいですみません、と再び勝手に、謝りつつ。

今回の本題はセルバンテスの「模範小説集」です。ドン・キホーテは知られていても読まれることの少ない小説と枕詞のように言われ、「模範小説集」に至っては、ドン・キホーテをめぐる話題として以外には語られることすら稀なようです。私自身、ドン・キホーテの面白さを考えると言いながら、「模範小説集」を参照することは殆どありませんでした。図書館での「出遭い」がなければ、この時期に読もうとしてはいなかったでしょう。

それは私の怠惰のせいでもありますが、これまでの翻訳の事情もかかわっていると記しても言い訳にはならないはずです。「模範小説集」を読むには、大変とまでは言わないとしても、ちょっとした困難があるのです。現在Amazonで入手できる版と収録作品を最下段に列記します。この情報は、私の知る限り、これまで整理された形で示されたことがありません。 続きを読む