寂しい森の楽しい散歩 模範小説集(2)

樋口正義訳『セルバンテス模範小説集』を読んで気づいたことが、いくつかありました。まずは、ドン・キホーテはセルバンテスの作品の中でやはり傑出したものだということです。「模範小説集」は決してつまらなくはありませんが、ドン・キホーテの作者の作品でなければ、小説集が単独で日本語訳されるなどということはなく、セルバンテスはスペイン黄金世紀の群小作家の一人という扱いだったでしょう。

ドン・キホーテ前・後編でなされた飛躍はそれほど大きなものでした。飛躍とは、煎じ詰めると、キホーテというとんでもない「偉大な人物」を創造したこと、キホーテ、サンチョの主従という絶妙のコンビを発明したことになりそうです。

これを書く前、セルバンテス作の戯曲をいくつか読んでみました。すると、「模範小説集」でも同様だったのですが、次第に寂しい森をさまよっているような気分になって来ました。いくらページを繰っても、キホーテ主従ほどの魅力ある人物に出くわさないのです。そうした作品群は、ドン・キホーテという高峰の裾野に位置して、その高さを指し示してくれているかのようです。しかし、裾野の森を巡り歩くことにも楽しみはあります。

楽しみとは、当然といえば当然なのですが、セルバンテスの作品ならではの煌めきを見出せることです。作品の魅力的な部分には、ドン・キホーテの作者が顔を出しています。あの傑作と同様ご都合主義満載の作り物のストーリーに、現実や、現実を超えた真実であるものが露呈することがあるのです。

前回述べたように「コルネリア夫人」は始まりが魅力的なのに、読み進めると期待を裏切られます。余分な登場人物が入り込んでストーリーが錯綜し、ご都合主義に寛容な人でも困惑するような偶然が介在する上に、クライマックスが無駄に引き延ばされるためにカタルシスを得られません。ドン・キホーテの「欠点」だけを煮詰めてしまった感じです。

で、期待せずに、本の順序通りでなく、次に「イギリスのスペイン娘」を読んだところ、上述のような欠点は同様に存在しているものの、そこまで複雑なストーリー展開ではないこともあって楽しめたのです。エリザベス朝時代のスペインとイギリスの関係が物語の土台となっていることも、シェイクスピアとセルバンテスについて書いていた私には、興味深いものでした。エリザベス女王がまるで水戸黄門みたいに活躍します(この点は映画「恋に落ちたシェイクスピア」と共通します。もしかして、これがヒントだったのかと思わせるくらい――そんなわけはなさそうですが)。

現代の日本人なら、「イギリスのスペイン娘」を読んで、だれもが北朝鮮による非道な拉致を連想するでしょう。主人公格のスペイン娘は七歳でイギリスの海賊によって拉致され、船長の家で育てられるのです。驚くべきことに、セルバンテスは被害者側のスペイン人であるにもかかわらず、 イギリス人や海賊の親玉であるエリザベスを非難する筆致ではありません。つまりは、海賊行為や拉致が当たり前のように横行していた時代だったということでしょうか。スペインも十分に「黒かった」わけで……。

残る二編も上記作と同様、楽しめました。それぞれ、レイプ相手を慕う乙女や、勝手に片思いをして他人の恋路を邪魔する男がヒーロー役だとか、呑み込まないといけない結構大きな異物があるのですが、セルバンテスの苦みを含んだ、しかしユーモラスな書きぶりのおかげで、最終的には明快で健康な読後感が生まれるようです。道徳観や感受性の変化によって受け入れられなくなった事どももまた、変わらない人間の本質的なありようと通底していることをセルバンテスは伝えてくれる、と私は感じました。

それがセルバンテスならではなのかどうか、スペイン文学を知らない私には断言できません。ただ、そうかもしれないと思う理由はあります。水声社全集版『模範小説集』に付録として「にせの伯母さん―一五七五年にサラマンカで起きた真実の物語」が収録されていて、これは「二重の欺瞞」のようにセルバンテス作なのかどうか真偽論争があるのだそうです。私には到底セルバンテス作と思えませんでした。内容は略しますが、背後のコンテクストに精通していないと楽しめそうにない小説なのです。

セルバンテス作と共通する面があるというので「真作」としている人は、小説を表面的にしか読めていないと思います。時代的な制約を受けていても、セルバンテスの作品は古びては見えません。時代を超える力を持つ強靱な文体が備わっているからです。上記小説に類似した要素はあっても、そうした文体が欠けています。

いつの間にやら、こんなに書いてしまいました。まだ、終わりそうにありません。「模範小説集」を後2回続けることになりそう……2回で終わるように気をつけないといけません。前回のタイトルに(1)とつけることにします。