前回の続きで、「驚くべき一行」から始めようとしたのだが、頭の中で整理がつかない。前回の更新後、気分が急降下して悩みこんだような状態に陥っていた。作者セルバンテスをめぐる探究を始めていいものか、それが問題だ。やりがいはあるだろう。しかし、いくつか文献にあたって、そこに突っ込んだら泥沼だと分かった。
ブログの趣旨からすると突っ込むのが正解だ。けれど、そうしたら小説を書く機縁はさらに遠のく。……独り相撲を取っているのだから、私が決めればいいことであって悩む必要はないはずなのに、この問題で頭をいっぱいになり、寝ても覚めても思考が堂々巡りしている。
書きながら考えるとしよう。他に方法を知らない。私が驚いたのは、以下のF・M・ビリャヌエバの論文(出典は後述)の[注]に引かれていた文章だ。「ミゲル・デ・セルバンテスは実際に、当時のヨーロッパの詩人や劇作家たちには滅多にありえないような活動、つまりビジネスに関わる経済活動において、この種の職業経験を持った、われわれの黄金世紀における、唯一の重要な作家であった」(ルイス・ラロケ・アリェンデ)
無敵艦隊の食料調達係や税金の取り立てをしていたことは、セルバンテスの苦渋に満ちた後半生の一部として周知だが、「ビジネスに関わる経済活動」を行っていたする文章は初めて見た。ビリャヌエバによれば、交易のような商業活動にも携わったことがあるようだ。ドン・キホーテが近代小説の先駆であるとするのは定型的な見方だが、小説はビジネスの時代である近代において主流になった文学表現である。
とはいえ、ドン・キホーテをはじめセルバンテスの作品にビジネスをめぐる記述を捜すのは無駄だ。ただ、経済活動にかかわって骨身にしみる体験をしたことが、セルバンテスの人間や社会に対する見方を変容、深化させたと考えることはできる。それが、経済の時代である近代の文学表現である小説を先駆的に生み出すことにつながったのではないか、と。さらに空想は羽ばたいて、シェイクスピアに飛び移る。
シェイクスピアはその早すぎる晩年に不動産投資を成功させている。無頼を気取りつつ、パトロン探しに汲々としていたらしい同時代の劇作家たちとは大違いだ。地方出身の劇作家が一朝一夕に投資家になれたとは考えにくい。シェイクスピアは、その経歴不明の若い時代、ビジネスにかかわる活動をしていたと考えてみてはどうだろうか? 実業の経歴がプラスと評価される時代ではないから公にはならなかったが、他の劇作家や詩人にはないビジネスの経験が、セルバンテス同様、シェイクスピアの時代を超えた人間把握と斬新な表現の源にあったのだ、と。
先の一文に驚いた後、私は上記のような空想にふけってしばらく楽しんだ。だが、上記ビリャヌエバの論文「セルバンテスの<ユダヤ性>に関する問題」や、当該論文を含む本田謙二氏編著『セルバンテスの批評』(水声社、2019年)を読み進める内、セルバンテスという人物をめぐって、ドン・キホーテ翻訳の解説程度の知識しかなかった私には衝撃的と言うしかない議論に直面することになった。私はそもそもどんな作者にも興味が薄く、セルバンテスも例外ではなかったので無知だったのだが……。
セルバンテスは、キリスト教に改宗したユダヤ人であるコンベルソの家系であり、彼が従事した物資や資金の調達の任務などはコンベルソの仕事だったというのだ。当時のスペインは先祖代々のキリスト教徒(旧キリスト教徒)であること、<血の純潔>が重視される「生粋主義」に支配されており、コンベルソや、元イスラム教徒であるモリスコなど「新キリスト教徒」は陰に陽に差別されていたのだ。
すると、セルバンテスが幾度も仕官に挫折した原因として、彼が旧キリスト教徒でなかったことが浮上する。ドン・キホーテの読み方も変わる。キホーテはコンベルソであり、一方従者のサンチョ・パンサは旧キリスト教徒、キホーテの思い人であるドゥルシネアはモリスコ――そう考えると符丁が合う記述がドンキ・ホーテには数多くあるというのだ。そもそもラ・マンチャはコンベルソが多く住んだ地域だった。
上記は、アメリコ・カストロ(1885~1972)という歴史学者・文学研究者が、スペイン史とセルバンテス、ドン・キホーテについて根底的な見直しをしたことによって開かれた展望らしい。こんなこと、それまで読んだ翻訳書の解説などには全く、あるいは殆ど触れられていなかった(と思う)。
私がドン・キホーテの面白さの謎と思っていたことは、上記と関係があるのかもしれない、と驚きつつ考えた。ただカストロ説が正しいのか、評価が定まっているわけではないようだ。この辺りを追究することは、私にとって幾重にも困難があり、冒頭に書いたように泥沼に踏み込むことになる。長くなったので、続きは次回に。
なお、セルバンテス=コンベルソ説は、日本でも秘密だったわけではない。中丸明氏(1941~2008)が1998年刊の『セルバンテス丸わかり』(日本放送出版協会)で紹介しており、今世紀になってからだがカストロの訳書も刊行されている。中丸氏の本も驚くべき一冊だった(先日、図書館でたまたま見つけた)。ドン・キホーテの抄訳が中心だが、付されたドン・キホーテとセルバンテスについての解説は、下ネタ満載のくだけた書きぶりで脱線が多いものの、非常に優れたものだ。