続・再び恋に落ちたシェイクスピア

キメラ的な『再び恋に落ちたシェイクスピア』、ほぼ完成しました。何という徒労! 2週間かけて、400字詰め換算96枚。短めの中編小説一本分(シナリオの第1稿のような形で、ややラフに書かれています)。前回記したように、使い途は恐らくありません。でも、途中でやめようとは一度も思いませんでした。暇の産物には違いないのですが、この2週間、何ものかに追い立てられているようでした。

何ものか。ミューズみたいな立派な神様ではなさそうです。ジーニーくらいか? シェイクスピア大明神ではなおさら畏れ多く。『再び恋に……』に登場するのは、映画の登場人物であったところのシェイクスピアであり、だからこそ実在の人物の名を勝手に使っても「良心の呵責」など感じなかったのでしょう。

執筆の合間には、徒労感に浸されて嫌になることもありました。しかし、いざPCに向かうと書く快楽に突き動かされるようで、思い煩うことはなかったのです。主な材料は、自家製カルデニオ-ハムレット論(→PDF直リン)、『二重の欺瞞』、『恋に落ちたシェイクスピア』。この三者をどう組み合わせるか全くのノープランでした。一行のメモすらなし。しかし取りかかれば次々に展開や場面、人物が勝手に登場して、執筆が滞ることはありませんでした。生来、筆の遅い性なのに、なぜ一気呵成に書けたのでしょうか?

明確なのは、私の内に湧き上がって来たのが既製品、紋切り型の展開、場面、人物だったことです。これらを組み立てるのは比較的容易な作業なのです。ある種のエンタテインメントが量産可能である秘訣を、初めて実体験したと言えます。だから、書く快楽を感じる一方で、書かされているという感覚がつきまとい、労働に従事している気分でもありました。新鮮な経験でしたが、小説を書いている時のような発見、深化はなかったと思います。

紋切り型である上に、これは二次創作でもありました。二次的な作物では、着想という創造の一段目の困難なステップを最初からクリアした状態で始めることができます。それはまさにシェイクスピアの作法です。シェイクスピアの魔法にかかれば、ありふれた言葉がまばゆい光りを放ち、型どおりにしか動かないはずの人物が躍動し、劇中では喜ばしいものであれ、空恐ろしいものであれ、人間と世界の真実が描き出されます。このような創造的な二次創作ができるのは、シェイクスピアのような例外的な才能に限られます。

既製品、紋切り型の物語、二次的な創作が比較的容易に制作可能であるとしても、実際にできあがった作品には出来、不出来があります。プロの仕事では上出来が当たり前で、となると、それは容易とは言いにくいのかもしれません。しかし、それでも真の創造とは違うと私は考えます。シェイクスピアなど少数の天才だけが、この限界を突破します。

私は限界のはるか手前でエンタテインメントを書く楽しみを味わったのだと思います。そうした方面の神さまとは私は縁が薄いので、うまくやったつもりではあるものの、純粋に楽しみを得たいと願うエンタテインメントの読者には、これは何か違う、あるいは不出来だと判定される気がします(書き手としての長い経験が、私にそう告げています)。

それでも、上記のような経験を通して、書くための源泉がまだ涸れていないと分かったことは大きな収穫でした。新しい小説をいつかは書ける、と自信のようなものも生まれました。ただし、実は濫筆という歳を取った書き手特有のぼけ症状で、当人は創造のつもりで廃墟のようなものを作りだしてしまった可能性はあります。確認のため、作品の性質上外に出すのは難しいので、判定役を知り合いにお願いするつもりです。また、当ブログの読者(いるかどうか分かりませんが)限定で届ける方法がないものかと思案しています。

この投稿をアップした後、暫く更新が滞るかもしれません。先延ばしにして来たメインのPCをWindows7から10にする作業を明日にも行う予定なのです。古いPCが耐えられるか心配です。無事更新できますように。