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ヘロドトスによる「愚かな物好きの話」  #35

ヘロドトス『歴史』(松平千秋訳、岩波文庫)は、私が古典と呼ばれる本の中でもとりわけ古い時代のものに目を向けるようになった「全ての爆弾の母」である。これを読んで、大型気化爆弾を食らったかのように、それまでの読書の性向はあらかた吹き飛ばされ、以降、古い本の中から生々しい声を聞き取ることが最大の喜びとなったのである。もっとも廃墟となった爆心地にやがて草木が芽吹き、元の住人の生き残りが生活を再建するように、以前からの読書傾向は少しずつ甦って来たのだが、爆撃前と同じ状態に戻ることはできない。

「本書はハリカルナッソス出身のヘロドトスが、人間界の出来事が時の移ろうとともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人(バルバロイ)の果たした偉大な事跡の数々――とりわけ両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情――も、やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、自ら研究調査したところを述べたものである」

私は、本屋で、「序」の書き出しである上記の文章を読み、いきなりギュッと心をつかまれたのだった(実は、この文章、松平千秋氏の翻訳の妙とでも言うべきものであることを後に知るのだが、その件については後の章で触れよう)。「歴史の父」ヘロドトスは、人の世において普遍的な事象である変化と忘却に抗おうとしていたのである。そのことに私は動かされたようだ。

ご多分に漏れず、私の住む東京近郊路線の私鉄駅近辺でも書店は近年次々に閉店したが、幸いにも、各駅停車で一駅、歩いてもさほど遠くない急行停車駅に大型書店が生き残っている。ビジネス書のコーナーが大きいこと、雑誌などの陳列や本の品揃えに少々左翼っぽい傾きが見られることは、今時の大手書店にはありがちと言うべきか。一方、哲学・思想関係となぜだかスピリチュアル系の書棚に力が入っているのは、ちょっと不思議。全体としては良質な本屋さんで、ここが閉店したら引っ越したくなると思う。

今はレイアウトが変わったが、以前は岩波文庫のコーナーがメインの通路沿いの一等地と言えそうな場所に鎮座し、お勧めの本が、表表紙が見えるように目に近い高さに置かれていた。ヘロドトス「歴史」を手に取ったのは、この陳列のおかげだ。

また、左隣が講談社学芸文庫の棚で、そこでは『老子』に目が向き、角川ソフィア文庫版『風土記』は岩波文庫の右側の棚で見つけた。古典を全集本で読む気力が湧かない昨今、こういう文庫はありがたい。学術・古典系の文庫を並べた棚が別の地味な場所に変わって以降、こうした本を購入する機会は減少した。今はそうした本の並びを見ても、前ほど魅力を感じないのである。書棚の場所が移動したら、本の発する磁力(魔力?)が減少したかのように。書店は本当に魅力と不思議でいっぱいだ。

おっと、だいぶ脇道にそれてしまった。「歴史」は書き出しに続く部分も楽しい。冒頭、「ギリシア人や異邦人(バルバロイ)が……いかなる原因から戦いを交えるに至ったか」とテーマが提示され、関連する歴史的な事項が羅列された後、突然語り口が変化して、リュディアの王権がヘラクレス家からクロイソス一門に移った経緯が具体的なエピソードとして物語のように語られるのである。

ヘラクレスの末裔カンダレウス王は、近習のギュゲスに自らの妻の美しさが至高であることを認めさせようと、渋るギュゲスを説き伏せて秘かに夫婦の寝室に招き入れる。妃はこれに気づいて裸身を見られたことに恥辱を覚え、夫に復讐すべくギュゲスに王を殺すよう迫る。クロイソス一門に属するギュゲスはやむなく王を殺して妃をめとり、リュディアの新たな王となる……テーマやそれまでの簡潔な書きぶりからすると、あまりに物語的でバランスを失している。しかし、一方で、近寄りがたい気がしていたヘロドトス『歴史』が、読み物として楽しめそうだと思わせてくれた。この予感は裏切られなかった。

上記のエピソードに、「愚かな物好きの話」とタイトルをつけてみたい。「ドン・キホーテ」中に挿入された、前後の脈絡から外れた「短編小説」だ。筋書きは――フィレンツェの若い貴族の親友どうしの片割れが、美貌の妻の貞節を試そうと、友人に妻を誘惑するよう迫る。友人は固持し続けたが、夫のしつこさに負けてしまう。夫は、友人が妻を口説き落とせるようあらゆる便宜を図ったので、二人はついに道ならぬ恋に走ることになる。夫の愚かな好奇心は、最後に悲劇で報いられる。

登場人物の配置、ストーリーの展開など、両者は同工異曲と言っていい。『セルバンテス短編集』の解説で、訳者の牛島信明氏は「愚かな……」の典拠はアリオストの『狂乱のオルランド』だと述べている。となると、アリオストの典拠がヘロドトスということになるのか? はたまた、セルバンテスが『歴史』を読んでいた可能性は……? 探究心をそそられるが、深入りしない。

思うに、ヘロドトス以前からこの残酷かつ大人びたお伽話の原型はあり、それがカンダレウスの王位簒奪の史実であるかのように用いられたのでないだろうか(リュディアの歴史について、ヘロドトスは第三者であるデルポイ人に聞いたと書いている)。ギュゲスは、プラトンの「国家」にも登場する。ただし元々は羊飼いで、透明人間になる指輪を利用して妃と交わり、リュディアの王位を手に入れた者として。こんな指輪を持ってなお人は正義を貫けるのか、とプラトンの登場人物は問いかけるのだ。先のお伽話は、ヘロドトスが記録したことで、時を超えて語り継がれる物語の一原型となったように思える。

カルデニオを定義する  #33

後編第44章で、「ドン・キホーテ」の原作者(という設定の)シデ・ハメーテは、前編において「物語の本筋から遊離した」短編小説を挿入した理由を、「たえず頭と手とペンを、ただひとつのテーマについて書くことに、そしてごくわずかな人物の口を介して話すことにさし向けてゆくというのはひどく耐えがたい」(牛島信明訳)から、と述べている。本当の作者セルバンテスは、他人のアイデアと主題を借りて長編を作り出そうとしたために、こうした嘆きをかこつことになったのではないか、と私は想像する(もちろん、できあがった小説はセルバンテスの作品そのものである)。

それでも、もしカルデニオが作中で大活躍していたら、「のべつ騎士とサンチョのことばかり語らねばならず、もっと重要でもあれば興味深くもあるエピソードや余談におよぶこともできない」といった愚痴を後編で述べることにはならなかったかもしれない。セルバンテスは、前編が錯綜した構成となったことを反省したのか、後編は「エピソードや余談」ぬきで書くことにしたのである。それは、作者にとって「ひどく耐えがたい仕事」だった。

セルバンテスは小説の歴史上で最も有名な主従コンビを創出し、文学における最大級の栄誉を受けることになったが、栄誉は後世のことで、この小説は作者に大した利益をもたらさなかった。作品は出版後たちまち大人気になったものの、版権を売り払っていたので金銭的な恩恵を被らず、単なる笑い話とみなされていたから文学的な名声とも縁遠かった。スペインでは世紀の後半には忘れ去られ、その後、他のヨーロッパ諸国での「ドンキ・ホーテ」再評価がスペインに伝わって、18世紀から19世紀にかけて国内でも高く評価されるようになったのである。

このブログ、#28に書いたように、またも執筆中断の期間があった。この間に、吉田彩子『教養としてのドン・キホーテ』が「NHKカルチャーラジオ 文学の世界」シリーズにあることを知り、読んだのである。示唆されることの多い本だった。で、論旨を変えることはなかったものの、#30以降、すでに書いていた部分に手を入れた。より正確になったと思う。吉田先生に感謝である。

ただし、#29「カルデニオとハムレット」は、上掲書を読む前に書いたままに近い。シェイクスピアに「カルデニオ」という散逸した作品があることは、この本のおかげで「知った」。「知った」と括弧付きなのは、以前に知っていたのに記憶から消えたと思われるからだ。ネットや事典で調べると、「第二の乙女の悲劇」なる作品が、シェイクスピアの「カルデニオ」に比定されることもあるようだが、内容からして大して関係があるとは思えない。

セルバンテスが「ハムレット」を観たり、読んだりした可能性はないので、カルデニオにハムレットの面影を読み取ったのは私の解釈である。一方、1613年に最古の上演記録があるというシェイクスピアの「カルデニオ」が、「ドン・キホーテ」の登場人物を用いた戯曲であることに間違いない。シェイクスピアは「ドン・キホーテ」を読んでいたのだ! 劇作家はカルデニオから何を読み取り、脚本化したのだろうか? 劇作家は、普通こんな地味な脇役を主人公にしたいとは思わないはずだ。キホーテとサンチョは、19世紀以降様々な形で舞台に上がっている(映画化もされた)。私としては、カルデニオの内に自作の主人公ハムレットの面影を見いだし、そこから一篇の戯曲を構想したのだと思いたい。

それにしても、カルデニオは「ドン・キホーテ」の中で居場所を失ったばかりか、せっかく沙翁に取り上げられながら、その一篇までも散逸の憂き目に遭っている。さしものシェイクスピアも、カルデニオが主人公では失敗作になるしかなかったのかもしれない。かわいそうなカルデニオ。私は、カルデニオをめぐる考察の終わりに、彼の悲運を慰めるため、まだ名づけられたことのない登場人物のあり方に彼の名前をつけるよう提案をしたい(この定義は、前回の最後に記したカルデニオが実は何もしないことで大きな役割を果たしていた可能性を考慮に入れていない。こちらを前回結末部より先に書いたのです)。

<カルデニ男(略して「カル男」とも)> 作者の期待を受けて派手に登場したものの、その後は目立った活躍ができず、いつしか作中よりフェイドアウトする男性登場人物のこと。セルバンテス作「ドン・キホーテ」前編の登場人物「カルデニオ」による。

さて、「ドンキ・ホーテ」については、一旦筆を置くことにしたい。「ドン・キホーテは、なぜ面白いのか?」という問いに対して、#31は私にとってやはりなかなか良い答えなのだ。とはいえ、究めたというほどの感覚もない。だから、新たなきっかけを見つけたり、何か脳内に降って来たりしたら、その時はまた「ドン・キホーテ」に戻ることにしよう。正直に言うと、大作家たちの賞賛を受けつつも、どこか舵の利きに怪しいところのある大型帆船<セルバンテス号>から、そろそろ降りたくなっているのである。

カルデニオに招かれた客たち  #32

キホーテ主従やカルデニオらが勢揃いする旅籠に、さらに何人もの客や闖入者が現れる。まずはアルジェでの虜囚の身から逃れた「捕虜」と、イスラム教からキリスト教への転向者である美女ソライダの二人組。捕虜がアルジェからの脱出を語る物語は3章に渡る長さだ。続いて判事と娘ドニャ・クラーラ。判事は新任地であるインディアスに渡る途中であるが、実は彼は生き別れた捕虜の弟であることが判明する。さらに、騾馬ひきの男が見事なソネットを歌うのが聞こえて来る。これは名家の御曹司ドン・ルイスが、ドニャ・クラーラを慕うあまり身をやつして追いかけて来たものだ。この間、キホーテをめぐるドタバタも語られはするが、物語は殆ど旅籠の客たちに乗っ取られてしまう。

ストーリーがなるべく滑らかに進むべきものであるとしたら、跛行と言いたいギクシャクした展開である。旅籠への新入りたちはみな、ドン・フェルナンドとルシンダも含めて、キホーテとの関係によって集まって来たのではなかった。彼らは、カルデニオに引き寄せられた者たちなのである。

裏切られた愛、流浪の身への転落、イスラム教徒との戦いと虜囚、虜囚からの脱出、インディアスという新天地への渡航。客たちに与えられたこうした属性は、カルデニオとその背後にいるセルバンテスが、実人生において、体験したり、体験しそこなったりした諸々なのである。セルバンテスは、自らの来し方や、望んでも叶えられなかった思いを長編小説の中に織り込むことに喜びや慰めを感じただろう、と私は想像する(虜囚の体験をして、それを作品に取り入れたいと望まない作家がいるだろうか?)。この目的のために、作者は、カルデニオという人物を、周到な準備をした上で登場させたのではないか。 続きを読む

「ドン・キホーテ」はなぜ面白いのか、答えが突然!?  #31

キホーテとサンチョの二人は、他人のアイデアに基づいて「設定」した登場人物だった。作者の感情は正副主人公からは読み取れないし、二人への共感も強くない。むしろ喜劇的要素を満載し、読者と共に笑いのめすべき対象として造形されている。他人のアイデアに発した主題に基づく人物たちなので、たとえば自己を投影するような表現には向かないのは当然だ。キホーテ主従は、セルバンテスが自らの来し方を仮託できるような人物像からほど遠い。二人のおかしくも惨めな有様に、作者の幸福とは言えなさそうな実人生はいくらか反映されているかもしれないが、作者が二人に感情移入する気配はない。キホーテは、徹頭徹尾、自業自得で狂気を得た喜劇的人物として造形されている。キホーテが時に崇高に見えるとしたら、それは喜劇的造形の徹底性故なのである。

自業自得とは正反対、裏切られたり絶望したりすることが人を狂気を導引するとしたら、セルバンテスこそが狂気に陥るべき人物だった。作者セルバンテスの実人生は挫折の連続だった(その生涯については、岩波文庫版前編(三)の牛島信明による簡にして要を得た解説を参照していただきたい)。しかしながら、セルバンテスが生きた時代、作家が自身の人生について告白するなどという小説作法は存在しなかった。

「ドン・キホーテ」を真に自らの作品とすべく、自身の人生を虚構の内に仮託しようとするなら、キホーテとは逆に、理不尽な裏切りに遭い、絶望して狂気に陥った悲劇的人物こそふさわしい。まさに、田舎貴族の青年カルデニオその人である。かくして、セルバンテスの人生の悲運は全きフィクションの形で、カルデニオに仮託されたと考えることができるのではないか。キホーテの頓珍漢な狂気に対して、カルデニオの狂気は悲劇的で、人々の涙を誘う体のものなのである。このような登場人物に対して読者は共感と同情を惜しまないに違いない……しかし、事はそううまく運ばなかったのである。

カルデニオの何が悪くて、作中存在感のある登場人物になれなかったのだろうか? いや、カルデニオは別に悪くない。ただ、真の狂人キホーテに釣り合う登場人物になるほどの内実が欠けていただけだ。端的に言うなら、狂気が足りなかった。彼が狂気に陥るのには十分な理由があり、それは理に叶っていたのであるが、誰もが知るように、狂気は理詰めでなるようなものではないのである。

狂気は、人生からの理屈に合わない跳躍であるはずだ。跳躍というと高みへの上昇みたいだから、言い直そう。狂気は大抵、人生の谷底への理不尽な落下である。もし理に叶った狂気などというものがあるとするなら、それは理に叶った解決がなされれば消失してしまう程度のものだ。カルデニオも場合がそうであったように。そして、カルデニオは狂気以外に突出した属性を持たず、狂気を喪失した後には並み以下の登場人物に成り下がるしかなかったのである。

こう考えてみると、「ドン・キホーテ」という小説、その主人公キホーテの並外れた特長が目に見えて来る。キホーテの狂気は、まさに現世の人生からの跳躍的な逸脱だった。騎士道小説狂いという理屈に合わない狂気は、現世の合理性によっては癒しようがない。司祭や床屋、鏡の騎士らが寄って集ったところで、彼らが現世の仕組みの中で動いている限り、キホーテの狂気は動かせないのだ。結局、勝利したのは狂気の側だったと言いたくなる。

前編のラスト、鳥籠のような移動牢獄に監禁され、見世物のような姿で故郷に帰るキホーテは真に惨めな有様であるが、狂気への有効な対抗手段を持たなかった凡庸な世間に対して、ついにキホーテの狂気が勝利を収めた逆説的な成功の象徴とも言える……これは強弁ではない。人は息苦しい現世からの逸脱や跳躍を求めるが、滅多にそれは叶うことがない。セルバンテスは何度も栄達の道を求めながら、すべて失敗した。オスマン・トルコの虜囚から解放された後、彼は祖国で二度も入牢の憂き目に遭っている。一方、キホーテは、サンチョとの遍歴の旅を通して凡庸な人生からの逸脱を見事に成し遂げたのだ。

現実の世界であり得ない「夢」を現実として生きようとするなら、世間から嘲笑われ、馬鹿にされるしかない。そんな恥ずかしい人生を、キホーテは迷わず生きてみせた。ただし、ここで大事なのは、セルバンテスが、彼の狂った旅の有様を情け容赦のない筆致で描き出してみせたことである。夢を追い求める者を応援する、なんて甘っちょろい話は一つもない。

当然、キホーテの旅は失敗の連続になるわけだが、キホーテは自らの失敗を失敗として認識しない。結果、彼の騎士道の夢は挫折することがないのである。無敵なのだ。「ドン・キホーテ」は、息もつかせないストーリー展開や読者の感情移入を誘う登場人物といった世間が求める小説のありようからは遠い。しかし、この度しがたい狂気という強靱無比の夢には、半端に出来のいいストーリーや登場人物では太刀打ちできない。キホーテには無類の突進力がある。この辺りに、「ドン・キホーテ」の奥深い魅力の秘密が隠されているのではなかろうか。

思わず知らず「ドン・キホーテはなぜ面白いのか?」という主題の答えらしきものに接近している。凡庸な結論に見えるかもしれないが、だからこそ正しいとも思える(ただし、これは夢を追い求める者の物語ではなく、夢を見続ける者が徹底的に虚仮にされる小説である)。しかし、結論づけるのはまだ早い気がする。そもそも、カルデニオの小説における重要な役割についてまだ書いていない。先に進もう。

カルデニオとキホーテ、そしてセルバンテス  #30

カルデニオは非常にインパクトの強い登場の仕方をしつつも、特にルシンダと結ばれた後には、その他大勢の一人に甘んじることになる。登場人物たちが様々に言葉を発する場面で、彼には一言のセリフも与えられなかったり。セルバンテスは、まさかカルデニオという登場人物を忘れたわけではないだろうが、使えないなあ、と思っていた可能性はある。

その登場時、カルデニオは不気味さ、暴力性で目立っただけではない。実際に読者の前に現れる前から、カルデニオの放棄した所有物やロバの死体などの痕跡をキホーテ主従が発見する形で、その存在が仄めかされるという、実に丁寧な扱いを受けていたのだった。カルデニオは、もっと重要な登場人物になるはずだったと推測する根拠の一つである。

カルデニオは、作者の、どのような期待を受けつつ物語に登場したのだろうか? 私見では、狂気に陥るべくもっともな理由を持つ人物としてである。彼がドン・フェルナンドに受けた仕打ちは、一人の青年をして心底絶望させるのに十分なものである。それは、キホーテが騎士道物語の読み過ぎでおかしくなったという滅多にありそうにない狂気の成り立ちと鋭い対照をなしている。

セルバンテスは、世に氾濫する騎士道物語を退治するために「ドン・キホーテ」を書いたと序文に記している。もちろんそれは嘘ではないにしても、どこか建前上の理由に見える。セルバンテスがどれほど騎士道物語を知悉し、骨がらみになっていたか、本編を読めば一目瞭然なのである。騎士道物語批判は、どこまで本気だったのだろうか?

吉田彩子『教養としてのドン・キホーテ』(NHK出版)によれば、セルバンテスがドン・キホーテを主人公とする物語を産み出す基になったのは、作者不詳の『ロマンセの幕間劇』という作品であることは確実なのだそうだ。主人公はロマンセの読み過ぎで書かれていることを現実と思い込み、牧人たちと争ったあげく、召使いによって家に連れ戻される……今ならセルバンテスは、間違いなくパクリ作者と批判されるはずだ。セルバンテスがまず書いたのは、騎士道物語狂いの老騎士ドン・キホーテがひとり遍歴の旅に出てドタバタ騒ぎを起こし、村に連れ戻される短編小説だったのだから。

セルバンテスは、『ロマンセの幕間劇』を読んで、その主題を騎士道物語に当てはめれば面白そうだと思いつき、一編の小品を書き上げたことになる。この作品が評判になると、セルバンテスは短編を冒頭の七章として続きを書き、長編に仕立てることにした。で、老騎士を改めて騎士道追求の旅に出立させたのだが、その際、騎士の道行きには必須の従者を脇に配した。

こうして生まれたキホーテとサンチョの主従は、やがて小説史上もっとも有名なコンビになるくらいだから、大長編小説の正副主人公にふさわしく、また騎士道物語批判というテーマにもピッタリだった。主従が騎士道物語に合わせてふるまうと、それが真剣であればあるほど(キホーテの真剣さは崇高でさえある)滑稽味を増し、読者の笑いを誘うのである。

セルバンテスは、書物狂いという根本のアイデアが他人の作から借りたわけで、となると、騎士道物語批判という主題も同様の借り物ということになる。『ロマンセの幕間劇』がロマンセ批判を含んでいることは明らかだからだ。セルバンテスは、他人のアイデアをいただいたり、盗作めいたことをしたりするのを気に病むことはなかっただろう。同時代人シェイクスピアがそうであったように。

ただ、自分が暖めていたのではないアイデア、主題で長編小説を書くのは、作者にとって少々心許ない作業であったはずだ。強い内発的な動機を欠いたまま執筆を続けるのは、作家にとってあまり良い状態とは言えない。セルバンテスが最初からそう感じていたかは不明だが、書き進むほどに辛さが募っていったとしても不思議ではない。

カルデニオとハムレット  #29

カルデニオが登場するのは、「ドン・キホーテ」前編全52章中の第23章においてであり、物語から姿を消すのは終盤の第47章である。「ドン・キホーテ」の最初の7章(正確には第7章の途中まで)が独立した短編小説だったことは、ほぼ間違いないようだ。一方、セルバンテスが短編の続きを書いて長編小説にしようと構想した時、すでに続編の計画があったとは考えにくい。となると、短編に続く長い部分のほぼ半分の間、カルデニオは作中に留め置かれたことになる。これほど長くキホーテの物語に居座り続ける登場人物は、主人公主従と故郷の家族、隣人達を除けば、実のところ他にいない。

ただし、この間、本筋と無関係とみなされることの多い「物語の中の物語」が長々と語られるので、実際の「出演時間」はさほど長くはない。しかし、私見によれば、いくつかの挿入部分も含め、「ドン・キホーテ」(前編)後半部分において、カルデニオは作品を構成する屋台骨の役割を担うことを作者によって期待されていたのだ。このことを明らかにするためには、まず彼がどんな人物なのかを確かめておく必要がある。「ドン・キホーテ」の読者は、カルデニオについて、どれほど思い出せるだろうか?

カルデニオは、何といってもシエラ・モレーナ山中に出没する暴力的な狂人として印象深い。読者として、山中に分け入ったキホーテ主従と共に味わう正体不明の怪物の不気味さは、全編中随一と言える。カルデニオの暴力性は狂気の発作によるものであり、理性が勝っている時の彼は穏やかで礼儀正しく、元は教養もあれば育ちもいい青年であることが判明する。第24章では、狂気と裏腹の善なる性質を見せた直後、主従と、一緒にいた山羊飼いの三人を、強烈な暴力で一気に叩きのめしてしまう。カルデニオの野獣性の面目躍如だが、実はここが作中で彼が狂気と暴力性を存分に発揮する最後の場面なのである。 続きを読む

「ドン・キホーテ」の中のもう一人のドン・キホーテ  #28

今回は、私がなぜ古い時代に書かれた歴史書に興味を持つようになったのかを述べるために、そのきっかけとなったヘロドトス「歴史」について書く心づもりだった。ドン・キホーテ云々という趣旨からすれば、またしても遠回りのようだが、それは風土記を冒頭に置くことに決めた当初からの計画だったのである。タイトルを「ドン・キホーテはなぜ面白いのか」ではなく「その本は――」とした理由の一つだ。ヘロドトスの出番は、こんなに遅くなる予定ではなかった。ところが、以下に述べるような事情により、彼の登場はまたしても先延ばしされることになる。

このブログを書き出した後、私は岩根圀和訳『ドン・キホーテ』(彩流社)を読み始めた。すると、暫くして「ドン・キホーテ」の中にもう一人キホーテがいることに気づいた。もう一人のキホーテとは、シエラ・モレーナ山中での冒険に登場する青年カルデニオである。カルデニオは狂気に陥らない限り理性的な人物であることで、キホーテに似ている。このような狂気と理性とを往還する人物は、前後編を通じてこの二人以外にいない。

カルデニオという人物の有り様は、キホーテとの「類似」という点で、他の脇役たちと大きく異なっているのだ。ならば、この例外的な人物について考えてみる価値があるのではないか? ……と頭の中で思考をめぐらす内、すぐにも考察を進めずにはいられなくなった。私は書きながらでないと頭が働かないので、つまりそれは直ちに書き始めるということである。

カルデニオとキホーテとの類似は、私の発見のような気がしている。というのも、訳書の解説や(主要な訳書は読んだ)、「ドン・キホーテ」論、セルバンテス論に目を通した中で、こうした指摘にお目にかからなかったからだ。もちろんセルバンテス論、ドン・キホーテ論は山のように書かれており、私が目を通したのは九牛の一毛でしかない。

が、私見では――妄想ではない、つもり――カルデニオという登場人物にひとたび注目するなら、この小説について論ずるのに欠かせない重要な人物であることが明らかになるはずなのだ。なのに、そうした言及には一度もお目にかからなかった。「二人のキホーテ」という見方は、かつて大きな論点として浮上したことはなかったと考えていいように思える。

とはいえ、「ユリイカ!」と叫んで風呂から飛び出すことはしない。私の脳内には、ネット上の書き込みを読んだのだか、勤めていた大学の誰かが言ったのか、こんな科白が鳴り響いているのである。

「もしあなたが他の誰も扱っていない新しい研究テーマを見つけたと思っても、多くの場合、先行者がいる。先行研究がないのなら、それは研究に値しないテーマだから、思いついたとしても誰も研究しなかったのだ」と。「研究に値しない」には二様の意味がある。テーマが学問や社会に貢献しないという意味。もう一つは、そんなことをやっても、学問の世界では誰も評価しない、という意味。一般的には後者が死活的に重要であって、後者をクリアできたなら、前者は特に問題とならないようでもある。

……と、ここまで書いたところで、このブログとは関係のない事情により、思いがけず長く執筆を中断することになった。書く時期とアップする時期とがずれているために、そうは見えないと思いますが。中断前、キホーテとサンチョならぬキホーテとカルデニオのコンビが、私の脳内を激しく駆け巡っていた。だが、今は祭りの後のように静まり反っている。書くつもりでいたことのいくらかは忘れてしまったと思しい。

体勢を立て直すため、章を変えることにしよう。それにしても、この時期、近年の私にしては忙しくしていたものの、傍らで執筆活動ができないほど多忙なわけではなかった。生来の怠惰に加えて、複数の仕事を並行して行う力が減衰して来たのは明らかだ。元から同時並行的に作業を行うのが苦手で、それがさらに悪化したということに過ぎないけれど……。とはいえ、執筆中断には一つ良いことがあった。岩根圀和訳『ドン・キホーテ』を読み終えたのである。この翻訳を読んでいて一つ面白い発見があった。これについては、だいぶ後で記す予定。

過去からの衝撃  #27

独自の宗教や神話が別の信仰や教義に代替されて失われた事例は、歴史上少なくない。キリスト教と聖書、イスラム教とコーランが土着の信仰、教義に取って代わるようなことだ。日本書紀は、もし日本が他民族による支配を受けていれば、たとえ抹殺されなかったとしても、国の根幹を明らかにする「民族」の神話、歴史書としては意味を失い、古事記に比して面白みに欠ける伝説集といった扱いになっていたかもしれない。いや、事実、第二次大戦後、GHQの統制下、そのような位置に近づけられたのだ。

しかし、米軍の支配は、支配される側の息の根を完全に止めるほどの「圧殺」ではなかったために、何とか息をつぐことができた。そして、占領が終わって何十年か経っても同じような状況は続いている。いつか歴史教科書において聖徳太子の存在が公式に否定される日が来れば、その時には書紀の「民族の神話」としての命脈が絶たれるかもしれない。……こんな風に考えていたら、ヨーロッパを始めとする世界のキリスト教徒が、旧約聖書の起源神話を「自分たちのもの」として受け入れているのが、何とも奇妙な光景のように思えて来た。それは古代イスラエル人の「神話」なのだから。

しかし、ここで改めて言っておきたい。書かれて残されたからこそ、約束の地で実際に何が起こっていたか、また大和王朝の成立史がどのようなものであったかを(少なくとも、どのように記述されたか、もしくは考えられていたか、あるいは考えたいと考えていたかを)知ることができるのだ、と。ほとんど痕跡を残さずに消された「民族」は数多い。

書かれ、残されていないが故に隠蔽されている虐殺は、数え切れないほど存在する。記録されていないから、それは文字通り「数え切れない」のだ。記紀、「インディオスの壊滅に関する簡潔な報告」、旧約聖書はむしろ例外なのかもしれない。まあ、中国の歴史という激しく入れ替わる陰映の無限大の集積のようなものもあるけれど。

千年、二千年の時を超え、「書かれたもの」が現実の政治を動かしている、という事実は驚嘆に価する。サルが言葉を持ってヒトになったとして、ヒトが文字で記録を残せるようになったこともまた、ヒトを別の段階へと変化させる何事かであったのだろう。いいことばかりじゃないので、「進化」という言葉は使いにくいが。

言葉が文字になり、文章が綴られて歴史が作り出される。その影響は時に衝撃的で、まばゆい光と深々とした影を未来に向かって投げかける。過去の出来事を、いま起きたかのように感じさせる書物が存在するのだ。それは凄いことだ(恐ろしいことでもある)。

ここで突然、「ドン・キホーテ」に立ち戻る。この小説は、セルバンテスの時代の出来事をついさっき起きたかのように伝えて来ることがある。古い本なら何でも、このようなことが起きるわけではない。私が「ドン・キホーテ」を面白いと思う理由の一つは、過去が生々しく生起する場所に立ち会わせてくれることだ。

誤解のないように付け加えておく。「ドン・キホーテ」が過去の記録として貴重だと言っているのではない。記録として貴重なのは事実だが(学者の証言もある)、そんなことのためにセルバンテスは「ドン・キホーテ」を書いたわけではなかった。それは時に優れた歴史書に比肩するほど鮮やかに、過去を甦らせる力を持つ、ということだ。

だいぶ前のことだが、とある文芸批評家(自称?)が、今の小説家の殆どはクズだから、将来の研究者のために現代風俗の記録となるものでも書いておけばいい、と語っていた。困った。私はクズだが、記録のために小説を書くはできそうにない。セルバンテスのような優れた小説家と、そこだけは同じなのである。