ドン・キホーテ」カテゴリーアーカイブ

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(3)   #64

セルバンテスのカルデニオとシェイクスピアのハムレット、二人の登場人物の類似性について「近くにいた相手に手ひどく裏切られること、復讐の手前での逡巡、内省的な性質、最愛の女性の悲劇(ルシンダは式の最中ほとんど死にそうになる)、そして狂気」と#29に記した。しかし、最近もう一つの相似に気づいた。

二人とも、裏切りの陰謀によって遠方に追いやられた後、「手紙」を読んで真相を知り、故地に舞い戻るという経験をするのだ。ありがちな筋ではあるが、ここまで共通点が多いとは……。となると、類似性の指摘がないことがむしろ不思議に思えて来る。唯一、これも最近、「哀れなカルデニオはスペインのハムレットであるかのようになすすimpotentlyべもなく復讐を探し求める」(劇評家Michael Billington。私訳)と新オックスフォード版全集「二重の欺瞞」冒頭の評言抜粋集にあるのを発見したが、明らかに揶揄するニュアンスだ。

研究者たちは、こうした類似を学問的には無意味として取り上げないのかもしれない。しかし、気づいていないだけという可能性もある。こんな例を知っているからだ。#28でカルデニオとキホーテの相似性について書いたが、作品内で重要な意味を持つこの要素への言及が、たとえば『ドン・キホーテ事典』のカルデニオの項目にもない。恐らく事典が編集された時点(2006年)では指摘されたことがなく、つまるところカルデニオは研究者たちの論点ではなかったと推量される。 続きを読む

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(2)  #63

国会図書館に遠隔複写を依頼していた太田一昭九州大学名誉教授の論文「『二重の欺瞞』の作者同定と文体統計解析」が届いて読むことができた。結果、カルデニオとハムレットの間に縁戚関係を見つける意義に確信を深めた一方で、「立論」の方向性は変えることにした。

つまり、(1)にあげたゲイリー・テイラーらによる著書中の論文に依拠し、それをカルデニオ-ハムレット説の骨組みとして論述しようと考えていたのだが、この計画は捨て、文献から得た知見を活かしながらも、それらは主に自説を補強する材料として使用することにした。

これら論者は、「二重の欺瞞」が、18世紀のシェイクスピア全集編纂者であるルイス・ティボルドによる偽作とみなされることが多かったのに対し、新史料の発見やコンピュータを活用した研究によって定説を覆し、シェイクスピア(とジョン・フレッチャーによる共同)の作品として、シェイクスピアの正典とされるアーデン版、新オックスフォード版(断片として収録)が出版されたのだった。 続きを読む

ハムレットとドン・キホーテ

ツルゲーネフが「ドン・キホーテは殆ど読み書きができません」と述べた件の続きです。猫の尻尾をつかんだつもりで「問題」をたぐり寄せてみたら、その正体はライオンと判明しました。本気で取り組む必要のあるテーマだったということですが、私の興味の対象から外れている上に、眼痛と頭痛も去りません。逃げます。逃げますが、行きがかり上、突如現れたライオンについてできるだけ簡略に記します。その後で、前回述べた「二つの可能性」に触れることにします。

昭和23年初版の岩波文庫『ドン・キホーテ正編(一)』には、スペイン語原典から初めて日本語訳を行った永田寛定氏による詳細な解説がついています。中でツルゲーネフの「ハムレットとドン・キホーテ」に触れていると知り、先日入手しました(昭和46年改訂版)。その「名高い講演」は解説の主要な話題の一つだったのですが、私がおかしいと感じたことについては、片言もありません。訳者の永田氏が気づかなかったはずはないのに、どういうことでしょうか?

永田氏の解説の主題は作者や主人公などの人物論であり(主人公=作者と強調されます)、作品と歴史や社会とのかかわりについてです。その点において、実は1860年にロシアで行われたツルゲーネフの演説と相似です。自己にとらわれていっかな行動しようとしないハムレットと、自らを顧みず「大義」のために生きるキホーテとの対比は、時も距離も言語も超え、戦後日本においても有効だったのです。それは民衆のために身を捨てる革命家と、内省の内に生きて傍観者となる知識人の比喩でもありました。 続きを読む

ツルゲーネフとドン・キホーテ

Shoko Teruyama ©2020

国会図書館の遠隔複写はすぐには届かないと思われるので、カルデニオとハムレットの続きは後回しにして、ドン・キホーテ補遺が終わってから書こうと思っていた内の一つを前倒しします。主に翻訳にまつわる話題です。材料はツルゲーネフの「ハムレットとドン・キホーテ」

ツルゲーネフは、高校の現代国語の教科書で「あいびき」を読み、文章そのものに感動するという初めての経験をした作家です。もちろん二葉亭四迷訳。手許にある新潮文庫版は昭和46年9月19刷。浪人生だった時に東京の書店で購入したもと思います。四迷「浮雲」は何がいいのかよく分かりませんでしたが、四迷訳ツルゲーネフの文章は今読んでも感じ入ってしまいます。

研究社シェイクスピア辞典にはツルゲーネフの項があります。ツルゲーネフが「ハムレットとドン・キホーテ」の中で、人間をドン・キホーテ型とハムレット型に二分したことが、一時期影響力を持った現れのようです。ツルゲーネフは、自己の信念に従い、無垢で無私のドン・キホーテを称揚する一方で、懐疑的でエゴイスティックだとしてハムレットを批判しました。 続きを読む

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(1)  #62

シェイクスピアは、『ドン・キホーテ』の登場人物カルデニオにハムレットの面影を見いだしたのではないか? それが昨年1月に私の立てた問いだった(#29#33を参照)。答えを見つけようと、まずこの疑問に関わる著作や先行研究がないか捜した。吉田彩子先生(#33参照)にメールで文献を教えていただくなどして、スペインの側からの問いかけはないだろうという判断に至った。

では、イギリス側からはどうか? なさそう、というのが現時点での答えである。となると、カルデニオとハムレットを結びつけたのは、私の妄想なのだろうか? そうとも言えない、という結論にたどり着く探究の道行きについて、これから語りたい。私にとって、実にとんでもなく面白い旅だったのである。

シェイクスピアに関しては、汗牛が充棟したビルで大都市を形成されるくらい多くの文献・研究がある。そうした中、「カルデニオ」は研究の中心街からはやや遠いものの、それなりに人の出入りの多い一棟である。シェイクスピアの作品中「カルデニオの物語The History of Cardenio」は上演歴は確かだが、台本の残っていない「失われた劇ロスト・プレイ」であり、これを発見しようと追求・探究が長く行われて来たのである。まずそのことを私は知った。 続きを読む

自作について語ること


 サクランボ猫

3月末、ドン・キホーテと風土記の補遺を書くための準備が始められそうと書いたのですが(こちら)、前者について進展がありました。去年買っておいた本を読んだところ、一挙に視界がクリアになったのです。だったら、とっとと読んでおけよというところですが、英語版なので億劫だったのです。

コロナの現実から逃避しようと、ナボコフPale Fireに頑張って取り組んだおかげで横文字本への耐性が鍛えられ、ずいぶん楽に読めました(ブログの更新が途絶えるぐらいには集中し、眼痛も再発したわけですが)。研究系の本、さらに翻訳書(原書は仏語)であることも奏効したと思います(翻訳は原文より分かりやすくなるのが普通)。ただし、求めていた答えを得たということではありません。

ドン・キホーテを読んで推察したこと(こちらこちら)が、可能性として生きる余地があると判明したことが大きな成果でした。また、私がウダウダ、グダグダ考えたり、書いたりしていることは、専門家や学者が考えない方向で何かを見いだす時に意義があるのだと確信(再確認)できたことも収穫です。ただ、補遺執筆はもう少し「研究」を深めてからにします。今回の本編は、自作を語ることについて、『女神の肩こり』自作解説の続きにして最終回です。 続きを読む

エリック・マコーマック『雲』 #60

なんと、『誰も教えてくれない聖書の読み方』をさらに先延ばしにして、「その本はなぜ面白いのか?」#60に突入します。エリック・マコーマック『雲』があまりに面白く、どうしても書きたくなったのです。

年末年始、エリック・マコーマック『雲』(柴田元幸訳)を読んで過ごした。450ページ強もある長編小説ながら、最後の方になると読み終えるのが勿体ないという気分になった。こんなの、いつ以来だろう? 読み終えるのが超嬉しい旧約聖書とはまさに対極だ。しかも、実のところ、好みかというと、そうではない。マコーマックは知らない作家だったし、この先別の作品を読むかどうか分からない。

痛みや残酷さ、怪異や怪物的存在を前面に立てる種類の小説が苦手で、自分でも書いたことがない。『雲』はまさにそうした小説なのに、夢中になって読んだのだ。何度か頭痛とじゃんけんすることになったが、この本を読むためなら負けても構わないと思っていた。そうなると意外に負けないのである。面白くて先へ先へと進んで行けるから、変に集中しないでも作品に入り込めるためか(この辺も旧約とは対極)。面白さには、こんな功徳もある。

好みではないのに面白いと感じたのは、なぜだろう? 一つは、現実ならざるものを現実と境目なしに、リアルであるかのように描くマジックリアリズムの作風(今や懐かしい?)だ。これは私にとってツボだが、それを怪異や怪物と結びつけられると嬉しくない。作品の起動力となる、地上を鏡のように映す「黒曜石雲(obsidian cloud)」はまさにリアルでマジックな怪異である(科学的に説明され得るが現実には起こったことはない、らしい)。 続きを読む

旅する娼婦たち、翻訳の問題  #43

#40で、「アナバシス」中に突如登場して兵たちと共にときの声をあげる「娼婦」とは何者なのか、その正体の解明に一歩近づいた。駐日ギリシャ大使館に問い合わせたところ、松平千秋氏が「娼婦」と訳した単語”etairai”(アルファベットで表記するとこうなるようだ)の意味を教えてくれたのである。”etairai”の男性形”etairos”は同志、親友を、その女性形”etaira”は高級娼婦を意味する。つまり、英語訳の註comrade-womenは同志という意味をくみ、風間喜代三氏が「芸者」と訳したのは”etaira”から来ていたようだ。ギリシャ大使館の方の示唆によれば、古代から19世紀まで、軍隊には”camp followers”がつきもので、その中に娼婦も含まれていた。

私は”camp follower”という言葉を知らなかったが、手元の電子版ランダムハウス英和辞典にちゃんと載っていた。「非戦闘従軍者:軍隊を追って移動したり、兵営の近くに住みつく肉体労働者、行商人、売春婦など」。このような「軍隊に追従し宿営地近くで商売をする人々」について、私に限らず、多くの人の視野に入っていないのではないか。戦争を商売の種と考え、軍隊と共に戦場の近くを移動する業者がいたのである。危険を伴うが、彼らはこのリスクに大きな見返りがあることを知っていたのだ。

軍隊といえばまず戦闘部隊のことを考える。その後方に、物資の輸送や補充、医療などを行う部隊が追随することは、まあ分かる。しかし、戦場を移動する戦闘部隊の後方には、軍隊に属さない「キャンプ・フォロワー」もいたわけである。古代の軍隊は街が移動しているようなものだったと言われることがあるが、キャンプ・フォロワーを含めて考えると、その様態が理解しやすくなる。そうした存在は表だって語られることが殆どなく、戦争における影の部分だった。いや、今でもそうだろう。その影にこそ、「戦場の女性」たちは存在した。彼女らは必要とされていたのである。彼女らがいなかった場合に何が起こるかを示唆する事例が、ヘロドトス「歴史」に記されている。

アテナイからカリア(現在のトルコ西南部)に来た男性たちは「移住の際女を連れてゆかなかったので、彼らの手によって両親を失ったカリアの女を妻としたのだった。この殺戮のためにこれらの女たちは、決して夫と食事を共にせず、夫の名を呼ばぬという掟を自分たちで作って……娘にも伝えたのである。現在の夫が自分たちの父や子供を殺し、そうしておきながら自分たちを妻にしたという恨みからである。」ここでいう「移住」が平和的なものでなかったのは言うまでもない。この「移住者」たちは、アテナイという出自をもって「最も高貴な血統」と誇っていたのだそうだ。

ここで突然ながら「ドン・キホーテ」に戻りたい。前に書きそびれた中に翻訳をめぐる問題があり、それは旅する娼婦をめぐるものだったのである。前編第三章、まだ一人で行動していたキホーテが、城と思い込んで訪れた宿の戸口にいた二人の女性である。二人は「馬方たち」と行動を共にする予定なのだが、兵隊たちが通りかかれば軍隊付きの娼婦にもなるに違いない。さて、その宿の主人は頭がおかしいと察したキホーテをやりすごそうと、妄言につきあってインチキな騎士叙任式を城主として行い、その際、娼婦二人をお付きに仕立てた。彼女らが見事にその役割を果たすと、キホーテは二人の「淑女」に名前をたずねる。これに対する一人の返答を、岩根國彦氏は次のように訳している。

「女はいともしとややかに、サンチョ・ビエナーリャの裏長屋に住まい致しますトレド生まれの靴直し職の娘トロサでございます。いずこにありましょうともあなた様を主と思ってお仕え申します、と応えた。」

娼婦の中でも下級と覚しい二人を、キホーテが姫君か貴婦人と思い込んでいるのに対して、当意即妙、上流婦人風の言葉で、しかし卑しい出自は隠さず返したのが面白くて、笑ってしまった。しかし、間もなく、上流社会と無縁のはずの彼女らに、そんな言葉遣いができたのか気になり始めた。それに他の訳で前に読んだ時、ここで笑った覚えはない。で、牛島信明訳を見直してみると、次のようになっていた。

「彼女はひどくへりくだった調子で、自分は名をトローサと呼び、トレードのサンチョ・ビエナーヤ広場の商店街で働く靴直し職人の娘だが、これから先は、どこにいようともあなたを主君と思いなして、お仕えするつもりだと答えた。」

上流婦人風の言葉遣いではなかった。荻内勝之訳でも同様で、英語訳、読めないながらスペイン語版に目を通しても、女が特に上品に喋っているようには受け取れなかった。岩根氏は喜劇的効果を高めるために、あえてこのように訳したのだろうか? その効果は、少なくとも私にはあったわけだ。「超訳」とまでは言えないとしても、その方向に一歩近づいているようでもある。

翻訳ではないが、私も引用に当たり、ある種の効果をねらって省略をしたことがある。#41の「アナバシス」からの引用で、「戦闘部隊は山頂に達して……凄まじい叫び声をあげた。」と一部を省いている。「……」は、実は「海を見ると、」である。それまで、こんな短い省略はしたことがない。「海を見ると、」を入れると、先陣部隊が何を見て叫んだのか、まだ山の下の方にいるクセノポンらに先んじて読者が知ってしまい、劇的効果が薄れると考えたのだ。ただし、ホメロスなどを読むと、予言や予告で先の出来事を明らかにし、その後その通りに展開するという記述は実に多い。活字本が普及する以前、朗読が前提とされた時代には、こうした「ネタばれの予告編」が必要だったとも考えられる。現代と古代の読者とでは、作品内でのサスペンスの求め方が違っているようだ。