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続・アカデミアの空白

歴史学や経営史学において、個々の人間像の探るような人物研究は過去に属するもののようです。さりながら、歴史学者が、専門とする時代の重要な人物について世間の人より知識が少ないということはまずないでしょう。過去の蓄積を摂取しているからです。ところが、岩崎彌太郎の場合、彌太郎や三菱に直接かかわる分野の専門家を除けば、私の新書の内容以上の知識を持つ学者はほぼいないはずです。

そう断言できるのは、『岩崎彌太郎 会社の創造』以外、史料に裏打ちされた「伝記」がないからです(私の本の後に出たものは未見)。専門家で書く材料を持つ人はいたのでしょうが、誰も手をつけませんでした。ライバル視される渋沢栄一の方は汗牛充棟の有様なのに。会社の歴史や会社員という存在の探究においても、私の『会社員とは何者か? 会社員小説をめぐって』に匹敵する論が、それ以前にあったようには見えません(ただし関連分野の、特に調査的な研究には、上掲書は多くを負っています)。

両書は、前回述べたアカデミアの空白の存在を指し示しています。私の関心領域は彌太郎からシェイクスピアまで出鱈目のようですが、空白域の探検という点で共通してもいます。ただし、空白域を意図的に捜したことは一度もなく、関心を抱いて探究をする内に各所で未踏の場所に至ったのです。偏頗も度が過ぎています。ただし、興味が満たされれば「素人」の分を超えて何か言ったりはしません。それにしても、空白域はなぜ様々な学問分野に存在するのでしょうか? 続きを読む

アカデミアの空白

メインPCのWindows10への更新は、大きなトラブルなしにすみました。その昔、PCの更新作業というと、私のような一般ユーザーには大変な関門で、神経をすり減らしつつ、多大な時間を費やしたものでした。今やOSの更新自体は何ということもなく、ただ便利な機能が使えなくなったり、ちょっとした操作で戸惑わせられたりして、テック企業の都合に振り回されることを苛立たしく感じるくらいですみます。

閑話休題。以下、「シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?」を書く間に思いめぐらしたことを記します(シェイクスピアから取りあえず離れます)。上記のエッセイもそうですが、私はアカデミズムの端っこをかすめる「研究もどき」を何度か敢行し、新しい知見を得て発表しています。なぜ、学者でない私に、そのような「発見」ができたのでしょうか?

研究分野に参入し、成果をあげようと意図したわけではありません。自ら抱いた疑問を解決しようとジタバタしていたら、アカデミアの近傍にたどり着いたというのが真相です。最初は、会社員の存在の意味について考える内、その歴史を知りたくなったのでした。適当な解説書がなかったので(このこと自体が驚きでしたが)、自分で探究をするうち深みにはまりました。 続きを読む

古代の書物を読む楽しみ 常陸国風土記(3)  #6

前回と同じような、人々が集って楽しむ様を描いた例をもう一つ挙げよう。久慈郡(くじのこほり)の一節である。

「浄き泉は淵をして、しもに是れそそながる。青葉はおのづからひかりかくす。きぬがさひるがえし、白砂しらすなごは亦、波をもてあそむしろく。夏の月の熱き日に、遠き里近きさとより、熱きを避け涼しきを追ひて、膝をちかづけ手を携へて、筑波の雅曲みやひとぶりを唱ひ、久慈の味酒うまさけを飲む。是れ、人間ひとのよの遊びにあれども、ひたぶる塵中よのなかわづらひを忘る。」

前にあげた二つの文に比してやや説明的だが、これも「夏の月の熱き日」の実感を伝えて間然とするところがない。真夏の光のまぶしさ、それ故に濃くなる陰影、酷暑をも楽しみに変えて遊ぶ人々。個人的には三菱の創始者岩崎彌太郎の日記中、夏の一日を親族や社員と共に川原で楽しんだ場面を想起する。彌太郎の評伝を書くために彼の日記を熟読したからだが、まあ、そんな人間は世界中で私以外ほぼいないとしても、盛夏の楽しみが古代も明治時代も同じようなものだと分かるのは、やはり面白いことだ。私も子供時代にこんな楽しい時間を過ごしたことがある。今の子供も少し幸運なら可能だろう。 続きを読む