聖書と虐殺  #24

旧約聖書は残虐非道な虐殺の「記録」でもある。私はそのことを知らなかったので、カナンの征服が描かれた「申命記」や「ヨシュア記」の辺りまで読んで気持ち悪くなり、先に進めなくなった。ユダヤの人々は、無人の荒れ地を飢えや内紛に苦しみながらさまよい、やはり無人の「約束の地」を発見して開墾、定住したのかと思っていた。

「約束の地へ」という美しい歌(作詞作曲:保浦牧子)がYouTubeにアップされている。https://www.youtube.com/watch?v=o6zgjJy-Sog 私の抱いていた苦難の旅のイメージにぴったりで、何も知らずに聞いたら感動したところだ(知った上で聞いても、いい歌)。しかし、実際に聖書に描かれていたのは、神に導かれるまま次々に先住民を滅ぼしていく好戦的な部族の姿だった。

預言者モーセに率いられた彷徨えるイスラエル人たちは、行く先々の先住民と戦っては皆殺しにしていく。滅ぼし尽くせ、あわれみを示してはならない、と神が命じたのだ。ところが、ミディアン人との戦いで、戦闘部隊は「男子を皆殺しにした」ものの女子供は捕虜にした。するとモーセは怒って、「子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくが良い」と命じた(民数記。聖書の引用は、すべて新共同訳による)。

ちなみに、この出来事が発生したのは「殺してはならない」などとする「十戒」がモーセに下される前のことだが、彼の死後にイスラエル人を率いたヨシュアは、アイの全住民「男女一万二千人」を「滅ぼし尽く」し、「山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地を含む全域を征服し」「息ある者をことごとく滅ぼし尽くした」のだった(ヨシュア記)。異教徒を殺すことは、戒律に反しないようだ。

記紀や風土記は定型を多用して簡潔に書かれているから、「踝を漬す血」という表現でも残酷さの実感は伝わらない(書かれた当時は「リアル」だったかもしれない)。ラス・カサスのレポートやマーク・トゥウェインの短編小説の内容はショッキングで何度か本を閉じたくなったが、その凄みや出来の良さから、途中でやめることなど考えもしなかった。しかし、旧約の続きはなかなか読めない。気が進まないのだ。前記二書と何が違うのか? 恐らく、先入観とのギャップが大き過ぎたのだろう。

出エジプトなどの迫害と流浪、モーセの十戒、蜜と乳の流れる約束の地など、旧約の逸話は様々な形で世に知られている。しかし、「虐殺者としての古代イスラエル人」という話は欠片も聞いたことがなかった。旧約の解説本にざっと目を通しても「民数記」中のミディアン人の虐殺に触れたものは見つからなかった(次章参照)。なぜこのことは隠蔽されているのだろうか? ……考える内に気が重くなってしまった。

ここで言う隠蔽は、前章で説明したのと同じ意味においてである――刊本には載っているが、一般向けの解説ではまず語られない。聖書と称する書物に平気でこんな記述を載せているのは、ある意味で凄みを感じる。聖書の神は人倫や人智をはるかに超え、理性など及びもつかない存在ということなのだろう。しかし、上記のような「隠蔽」はプロパガンダに等しい。そして、記紀の隠蔽は日本人を小さく感じさせ、旧約の隠蔽はユダヤ人やキリスト教をより良いものに見せる。日本人の一人として、悲しい。

旧約聖書を(途中まで)読んで、約束の地という言葉から連想される「神の加護でいずれ到達するはずの理想郷」というロマンティックなイメージは消えてなくなった。19世紀のアメリカにおける「西部開拓」が「約束の地」を目指すものであり、それは神から与えられた「マニフェスト・デスティニー(明白な使命)」と考えられていた、というような半端な知識はあった。しかし、まさか先住民への迫害までが使命の内だったとは……今は作られることのない西部劇映画で、「インディアン」が当たり前のように敵役だったのは、実は聖書に根拠があったわけだ。

イスラエルの原理主義者たちが、ヨルダン川西岸のパレスティナ自治区や東エルサレムで、パレスティナ人を居住地から追い出してまで入植地を増やしてきたのが不思議でならなかった。土地が不足しているわけでもなさそうなのに、国際的に大きな批判を受け、反撃の危険性をわかった上で、そこまで理不尽なことをやるのか、と。旧約を読んだら、その根本の理由を呑み込めた。入植者にとっては神の命令なのだろう。この問題は長く報道されているが、パレスティナ入植運動と旧約にある古代イスラエル人とを結びつける解説を聞く機会は殆どなかった。

釈然としないのだ。古代イスラエル人の苦難の旅が、実は征服と虐殺の旅であると聖書に書かれていることくらい、旧約を教養として読んでいるような「知識人」は当然知っており、その上で黙っているのだろうか? 最近、アメリカの非常にインテレクチュアルな作家が(当然、政治的にはリベラル)、「約束の地」を何気ない調子で、肯定的な意味で使っているのを見て、やるせなくなった。ダブル・スタンダードはリベラルな政治家やメディアの常だけれど、作家までも同じだとは考えたくなかったらしい。

キリスト教関係者が、語らないという選択をするのは不思議ではない。日本人からすると、これもダブル・スタンダード、不誠実な態度だけれど。カトリックもプロテスタントも、日本の過去の戦争や「植民地支配」を責め立て、何百年も前のキリスト教への弾圧について語るのをやめようとしないのだから。「約束の地へ」という歌が、聖書をきちんと読んだ上で作られたのだとしたら恐ろしい。美しい歌であればあるほど……。