旧約聖書の凄さ(1) #52

#52は、「その本は、なぜ面白いのか?」の第52回という意味です。#51から随分長く中断していました。このブログはそもそもこの形で始まったのでした。

旧約聖書を読み続けるうち、とんでもなく凄い本だと思うに至った。これからその凄さについて記すつもりだが、原則的に宗教的な考察は含まない。私はユダヤ教、キリスト教の信者ではなく、別のどんな宗教の信者でもない。宗教を論ずる素養に欠けている。また、前にも旧約のある種の凄みについて触れたが、今回の考察とはほぼ無関係である。私は一冊の本が世界と世界史を作り出したことに衝撃を受けた。そのことを書きたい。

久しぶりの「その本は、なぜ面白いのか?」なので、旧約聖書が面白い本と言えるのか、最初に触れておこう。今回はほとんど退屈しなかった(名前の羅列や神殿建築物の詳細などは斜めに読む)。一方で、読み物として面白いかと問われると、肯定しにくい。旧約は面白く読むことができるが、その面白さは読者の側から働きかけることで得られる種類のものだと思う。

実際、旧約を読む道筋は難路である。整備された道で、美しい景色やスピードのスリルを楽しむようにはいかない。矛盾や不合理の数々、感情移入しにくい登場人物、馴染みのない自然、記述や挿話の繰り返し、一方で断絶も多く……ガタガタ道を、私の持っている版では、2段組2000ページ近くを踏破しなくてはならない。

しかしながら、今回はオフロードの冒険行のように楽しかった。私の場合、旧約の各「書」の寄せ集めのような構成はむしろ好みで、おまけに記憶力がひどいから繰り返しもさほど気にならない強み(?)もある。名前の羅列や建築物の詳細な記述が面白いわけもないが、それらが是非とも書かねばならないものであると分かったのも収穫だった。飛ばし読みでは感じ取れなかっただろう。全体をまるごと読もうとしたことで、初めて真価に触れることができたと思う。

以前は、こんな風だった――創世記や出エジプト記の神話やエピソードは有名で、知らぬ間に頭に入っているから、聖書にはこう書いてあったのかと確かめられて楽しい。ひどい記憶力のおかげで(旧約に挑戦し直すたび)新鮮さを味わえる。しかし、レビ記、民数記あたりへ進むと、荒野へ、砂漠地帯へと足を踏み入れる心地になり、やがて忍耐が続かず興味をひかれそうなところを飛ばし読みすることになる。しかもそれすら最後まで行かずに巻を閉じて……振り出しに戻る、というわけだ。

旧約聖書は多くの要素から成り立っている。聖典であり、歴史であり、教訓集であり、詩集であり、法律であり、民族の神話であり、物語集でもある。多数の「本」が寄せ集められて一冊になっているのだ。中に戦争にまつわる話も多いが、戦記としては「アナバシス」や「アレクサンダー大王東征記」にかなわない。

あくまで神との関係においての記述なので、人間の極限のドラマである戦記としては物足りないのである。また多くの詩や韻文がおさめられているが、賛美歌などで耳に馴染んだものはあっても、神との関係が濃厚すぎて詩集として楽しむのは難しい。物語としても、エステル記など面白く読める挿話はあるものの、それは全体のほんの一部だ。ホメロスには到底くらべられない。

歴史書としては、どうか? 面白味なら、好奇心の権化ヘロドトス一人に負けてしまう。たとえば、ヘロドトスが活写したアケメネス朝ペルシアの大王キュロスは、旧約ではユダヤ人にとって都合よく理想化されてしまう。ペルシアの君主ではアルタクセルクセスも登場するが、バビロン捕囚後のユダヤ人の運命に関わる重要人物のはずなのに、聖書中の記述では1世、2世のどちらか不明という始末。脱力させられる。歴史的な事実より宗教的な真実の方が重要なのだとしても……。

こんな風なのに、なぜ今回読み切れたのだろうか? ヘロドトスを読んで読書性向が変化し「古い本の中から生々しい声を聞き取ることが最大の喜びとなった」ことが決定的だった。声は、できる限り古く、遠い彼方からリアルに聞こえて来た時に一層喜ばしい。古すぎ、遠すぎて理解できないのは困るが、旧約はその極限で楽しませてくれた。

ただし、旧約を読んでいる間、そうした声をはっきりと聞き取れていたわけではないのも事実である。神の存在が色んな意味で強烈すぎ、人間の生の声を聞き取る邪魔になってしまう。聖書なのだから、邪魔とは言わないか。それでも読み続けたのは、深淵から、微かな耳鳴りのように、何か大事なものが伝わって来る感触がずっとあったからだ。千数百ページを経て、ついに「声」に辿り着いた時、私は旧約の凄さに圧倒されたのである。