ナボコフ「青白い炎」は、架空のアメリカ詩人ジョン・シェイドの最後の詩と、シェイドの大学の同僚チャールズ・キンボートによる前書きと註釈、索引からなる凝った体裁の小説だ。註釈と言いながら、ゼンブラ王国の国王やキンボートに関連する記述が過半を占める。国王=キンボートなのか? と読者に謎をかけつつ。
キンボートは単なる語り手=主人公ではない。提示されるシェイドの詩は彼の編集になるものであり、キンボートの語りは註釈という形式によって作中で絶対的な強度を持つ。註釈の多くはアカデミックな視点からは容認されない……いや素人目にもおかしいのだが、シェイドの妻や大学の同僚、シェイドの研究者たちは、シェイドの「最後の詩」という宝物に触れるためには、少なくとも一度この註釈を経由せざるを得ない。その事情は私たち読者も同じだ。狂った信用できない語り手であるキンボートが読者を支配するのである。
実は「青白い炎」はキンボートの自叙伝とも言えるのだが、だからといって全てが狂気に満たされているわけではない。時に美しいとさえ言える「詩と真実」が垣間見えることもある。ナボコフ自身が語っているかのような文学論や、シェイドの詩を介して表明されるキンボート自身の文学への愛など。私が感じ入ったのは、シェイドの誕生日(キンボートの誕生日でもある)の出来事が綴られた181行目の註釈における「描写」だった。
キンボートはシェイドの隣家に住み、シェイドの様子を日々観察している。隣家に住んだのは偶然のようだが……詩人の休暇滞在先の情報を入手し、サプライズで登場する計画を立てて失敗したこともある(287行目の註釈)。今ならストーカーと断定される振る舞いだが、そんな言葉が一般化する30年も前の作品である。シェイドへの執着にはキンボートが同性愛者であることも影響していそうだが、敬愛の念が優っていると思える(彼の好みは若い元気者だ)。
誕生日当日、傍目には悪趣味としか思えないプレゼントを用意したキンボートは、隣宅で準備中のパーティーへの招待があると思い込んで「お気に入りの賛美歌」を朗唱しながらシャワーを浴びる。しかし、待ち焦がれた電話はついに来ない。キンボートは「カーテンの陰から、ツゲの茂みの陰から」「彼の家の芝生を、私道を、入口の欄間を、宝石のように輝く窓々をじっと注視し続け」、招待客を「一人残らずこの目で見ていた」。
最初は「よたつくフォードで到着」した老齢の医師、弁護士夫妻の「うっかり者のキャディラックは我が家の私道に入りかけたのち、あたふたとライトを瞬かせて退却」、若い時代にシェイドの文学上の同志だった世界的老作家は「文学的栄誉とおのれの多作な凡庸さの重荷に腰も曲がらんばかりの姿でタクシーを降り」、鳥類学教授や芸術パトロンの婦人らに続いて、大学学長が「だぶだぶのスーツ姿で徒歩でやって来る」。窓の向こうで酒を配っているホテル学部の白衣装の若者が「大変親しい知り合い」であることにも気づく。
8時半過ぎ、遅刻して「長々とした黒いリムジン」で現れたのは、「ニュースの常連」だというシェイドのいとこの上院議員だ。「残念なことに我が詩人は」戸口でこのメイン・ゲストを出迎え、「酒で赤らんだ顔には歓迎の笑みを湛えていた」。詩人が大物を卑屈に迎える残念さの表明以外、キンボートの感情は一連の描写の中に示されない。しかし読者は彼の失望、落胆、嫉妬、焦燥などの感情をあまさず読み取ることができる。ナボコフの真骨頂だ。
ナボコフはアメリカの大学に職を得ていたが、必ずしも思い通りの地位を得られたわけではない。また、亡命ロシア人の彼が、大学のエスタブリッシュメントから意に染まぬ扱いを受けたことがあったとしても不思議ではない。登場人物を直接実在の人物に重ねることはナボコフ信者の禁忌だが、こうした描写を通して作者の思いを透かし見ることは許されるだろう。ナボコフの経歴をよく知らなかった私は、「青白い炎」は大学教授時代に書かれたものと思い込み、この注釈に特に心を動かされたのだった。
しかし、実際には原書は1962年、大学をやめスイスに移住してから3年後に刊行されている。前回のブログに書いたように、ナボコフはスイスで文学的セレブリティーとして生活を謳歌していた。ならば、シェイドからナボコフを透かし見ることも可能だ。そんなことを考えたら、正直なところ、「青白い炎」という作品に対して心理的な距離ができてしまった。件の詩を書いたのはナボコフなのだから、シェイドがナボコフであっても問題ないはずだけれど、ナボコフがキンボートを見下しつつ書いたのだとしたら……。
しかし、そもそもキンボートとシェイドの間柄を単純化してはならないのだ。二人にシェイドの妻シビルを加えた「三角関係」は、実は小説の最大の読ませどころの一つである。キンボートと妻とは対立関係、シェイドもキンボートに辟易していそうなのに、必ずしも拒否しない。絶妙な三角形が形成される。他にも多くの魅力のポイントを指摘できる。かくして、これも前回書いた通り、私は既にめでたく信者の地位に復帰しているのである。
上記の「 」内の引用は森慎一郎訳『淡い炎』(作品社 2018年刊)による。翻訳についても書きたいのだが、後回しにしよう。そろそろ『女神の肩こり』の自作解説をしないと何を書くつもりだったか忘れてしまいそうだ。いや、もう忘れ始めている……。