風土記」カテゴリーアーカイブ

愛しい古代 風土記補遺(1)   #71

過ぎてしまえば一月前だって手の届かない昔だ。どんなに些細でも、起きたことを変えることはできない。歴史的な過去でもないのに、あった通りに思い出すことすらできない。そして、そんなあやふやな過去の集積が私という人間を成り立たせている。記憶は、過去という大海を漂う小さな船のようだ……なぜ急に、こんなことを言い出したかというと、はるかな昔に書かれたものに惹かれる自分の気持ちが、なお少し不思議でもあるからだ。そのことが記憶や過去、歴史といった言葉に結びついて、よしなしごとに思いをめぐらしてしまうらしい。

小説には大きな魅力を感じる。ずいぶん助けられた恩義もあるわけだが、野蛮すぎて穏やかな気持ちで愛でることは難しい。小説は街の路上で行われる喧嘩のようなものだ。人の喧嘩は楽しいし、自分でもそんな野蛮な遊びに参加していた。まだやる気はある。ただ、あれはやむにやまれず行うものだ。はるかな昔の書物に触れて愛おしい気持ちになることから、かなり遠い。無関係ではなく、それどころか深いところでつながっているはずだが、今はおこう。

風土記について書くために、続日本紀の一部に目を通した。風土記同様、官報めいた記述(というか人事などはそのもの)の合間に置かれた、亡くなった高僧の伝記や来朝した外交使節とのやりとりなどを記した部分を読むのが心地よい。特別なことが書かれているからでも、常陸国風土記のように書き手の才能を感じたからでもない。抑制された簡潔な筆致で書かれたエッセイを読む楽しみに近いのだが、はるかな昔の記録でなければ、ここまで惹かれはしないだろう。 続きを読む

ここで風土記を思い出す  #17

フローベール「ボヴァリー夫人」に触れるのは、この文章を書き始めた当初の思惑にはなかったものの、小文の趣旨からして迂路ではない。しかし、こんな具合に、こちらの隙を突くように闖入して来られると応対に困る。まあ、あてもなく始めて、あちらこちらフラフラしながら書き続けているのだから、元々隙だらけではあったわけだが。

「ボヴァリー夫人」は、フランス語ができないから和訳ばかり、生島遼一訳で多分三度、山田𣝣訳、吉川泰久訳でも一度ずつ読んでいる。もう一回読めと命令されたなら、「喜んで!」と応じる。しかし、この先限りある人生、自発的にもう一度読むかと自問すると、できればそうしたい、くらいの答えになる。

「ボヴァリー夫人」は、私にとって現代小説の最高クラスの教師にして教科書のようなのだ。好きか? と再度自問すれば、答えはイエス。ただし、お気に入りの教師やテキストのように好きなのである(現実世界では、そんな教師や教科書に、残念ながら巡り会わなかったけれど)。作品への愛さえあるものの、恋愛ではなく尊敬の対象ということだ。

ストーリーの話から、登場人物の方に話が逸れてしまって早幾歳。風土記が何故気に入ったのか語ろうとして、こんな流れになった。ストーリー指向ではない、登場人物の魅力への感受性に欠けている、一方、一定の枠組みの中で小世界が造形される話は大好き。風土記は、そんな私には実によく合っていた。

別に天邪鬼で、世間と反対の方向に行こうとしたのではなかった(私が天邪鬼なのは確かだとしても)。ごく自然に記紀より風土記となったのである。全体を貫くストーリーに欠け、古事記の神々や英雄、日本書紀の多彩な貴人たちといった華のある「登場人物」が活躍することもない――そんな風土記に惹きつけられたのは、私の性向からすると不思議ではない。

なぜ「ドン・キホーテ」が面白いのかという問いに、この発見は関わりがありそうだ。「ドン・キホーテ」は一つの長編小説というより、様々な小世界のエピソードの集積なのである(特に前編)。行く先々で個別の「事件」に出遭う「ロード・ノベル」と言ってもいい。もちろん神も英雄も出て来ないし、キホーテとサンチョは、私には魅力的な登場人物というより面倒くさい旅の仲間みたいに感じられる。

しかし、これは「ドン・キホーテ」を面白いと感じるに至る必要条件でしかない。面白さの解明という目的地に向かって、さらに旅を続けよう。でも一直線にではなく、時々の興味に応じて回り道をしながら、その寄り道自体を喜びとしながら。

越えられない「歴史の壁」を越える  #11

私は前回「愚直な宮崎人ならきっとこうする」と書いたが、これは愚直で、かつ宮崎県人である場合には、という意味である。宮崎県人がみな愚直なわけではない。とんでもない! ただ愚直な人がやや多いことは、愚直な宮崎県出身者の一人として認めたい。

私は、四人の祖父母に一人も宮崎の生まれ、育ちがいないので純粋さに欠ける面があり、そのせいなのか疑り深さという欠点を抱えているが、同時に他愛もなくだまされて、こんな嘘を信じた人は私が初めてだと驚かれたりするような人間でもある。私が君牛遠征団の一員だとすると、その気になってドボンと海に入った後に、鹿皮を着ても泳げない者はやはり泳げないのでは、と疑心暗鬼に陥り、溺れそうになる気がする。お前は陸に戻れ、と君牛に諭される情景が目に浮かぶ。

私はさっきから何を書いているのか? 宮崎の県民性を云々したいのではない。古代の日向国ひむかのくにの人を今の宮崎県人に直結して話を進めるのが愉快で、その楽しみを前回だけで終わらせたくなかったのである。歴史には、こういう「ワープ」する楽しみがある。

その一方、楽しみは楽しみとして、歴史に事実、リアリティを求めるなら、安易な同一化を避ける必要がある。諸県君牛(もろがたのきみうし)の時代の日向国の人と現代の宮崎県人との間には、本当は超えられないほど高い壁があり、両者を隔てている。で、その断絶をないものとして無理にも同一性を構築するのが「ワープ」の楽しさだ。

歴史の事実やリアリティとは難しい問題だが、私のような歴史の素人は、その追究を学者に任せていれば大抵は用がすむ。しかし、残念なことに、歴史は客観的な事実という一点のみに立脚して語られることは滅多になく、イデオロギーや国家観といったものにいつも揺り動かされている。だから、歴史を知るためには、できる限り「原典」に近づくことが望ましいようだ。もちろん、そこに客観的な真実があるからではなく、自分の目で本文を確かめた上で判断できるからだ。学者による真摯な研究は、こうした判断の際にこそ役立つ。

土蜘蛛を滅ぼしたとして、誇らしげに書かれる「踝をひたすす血」の一行に私(たち)はたじろぐ。そこには、強い歴史のリアリティーがある。たじろぎは、壁の向こう側のぬるぬると不気味なものに直接手で触れたと感じたからこそ生じたのだ。しかし、同時に、たじろぎは「こちら側」の歴史感覚を照射してもいる。夷狄の生命の軽視を罪とみる一視同仁の平和的ヒューマニズムを、私たちは議論の余地のない前提としていることを自覚させられるのだ。こうしたヒューマニズムは、たとえば「聖戦」を信じる人たちには通用しない。

風土記を読み始めた大きな理由の一つは、実は歯ごたえのある読書をしたかったからだった。歯ごたえがあるとは、そう簡単には読めないことと考えていたのだが、それだけではなかった、と今になって気づく。自分が生きる現在を、半分眠っているかのような日常的な認識や感覚を、今一度目を覚まして確認したかったのだ。風土記はそういう意味でも楽しかった。

……少し歴史に深入りし過ぎたようだ。私が風土記を面白いと思う理由には、どんな本を好むのかという根本的な性向がかかわっている。風土記は私の性向とうまく合致していた。私の趣味は世間的に全く例外的とまでは言えないにしても(たぶん)、風土記が古事記よりも性に合うというくらいには「変」なのである。

残酷さとハッピーエンド  #10

豊後・肥前の九州二カ国の「風土記」は短く、双方とも、その主たる内容は大和王朝による九州の辺土征服とそれに関連する神話である。物語としての面白さを持つ一方、征服した側からの一方的な記述に偏っているため、狭苦しく、息苦しい。#7に合わせて言えば、ここでは風土は神々や天皇を刺繍した天蓋で覆われているのだ。

「豊後国風土記」中、海石榴市つばきち血田ちだの地名の起源は、こうである。景行天皇が群臣に命じて土蜘蛛を襲わせる。勇猛な兵卒は海石榴の木を武器に変造して「山を穿うがち、草をなびけ」、土蜘蛛をことごとく殺伐したので、踝まで血に没した。海石榴の木の武器を作った所を海石榴市、血が流れた所を血田という。 続きを読む

播磨国風土記の地名起源説話  #9

フォーマットは違うものの、形式的なまとまり具合で「播磨国風土記」は「出雲国風土記」に劣らない。播磨編の定式は、こほりや山や川のそれぞれに地名の由来が記され、里においては農地に九段階のランク付けがされるというものである。

地名起源には興味深いものもあるが、たいてい「寒い」駄洒落の類いで――賀野かやの里は応神天応がここに御殿を造って蚊屋を張ったから――やがて辟易することになる。しかも播磨編は結構長いのに(角川ソフィア文庫版で150ページ超)、駄洒落地名起源説が最後まで飽かず繰り返されるのだ。

古代の人々の生活に直接触れるような生々しさに欠ける点も、出雲編と同様である。活躍する「登場人物」は殆どが神々や天皇を筆頭とする貴人である。なので、記紀のような神話と歴史の融合体から、時間軸を抜いてフラットに仕立てた(かつ、うんと素朴にした)ものを読んでいるような感触を覚える。 続きを読む

「官報」としての出雲国風土記  #8

風土記が人気薄である原因の一つは、「出雲国風土記」にあるのかもしれない。大和朝廷対出雲王権という古代史の人気トピックの中心地である上に、残存五か国の内で唯一ほぼ完全な形で残っているのだから、古代史に興味を持つ読み手の期待はいやが上にも高まるだろう。が、私見では残存五か国中もっとも退屈なのが出雲編なのである。

なぜ退屈か? 風土記は、朝廷の求めに応じて各国の事情を報告したもの(「」)であり、その集成として「官報」のような性質を持っている。出雲編は時代的に新しいので形式的に整っており(つまりは官報としての完成度が高く)、しかもそれがほぼ完全な形で残ったために、読み物としてはつまらないのである。

常陸国風土記を読んでいると、「以下略」と記されている箇所が多くある。何が書かれていたか気にかかり、省略があるのを残念に感じたものだ。ところが出雲編を読むと、「長江山。郡家こほりのみやけの東南五十里。水精みずとるたま(水晶)有り。/暑垣山。郡家の真東二十里八十歩。とぶひ(狼煙を上げるための施設)有り。/高野山。郡家の真東十九里」といった記述が延々と続くのに出会うことになる。 続きを読む

「仕事と日」と風土記、アンダルシアの青い空  #7

古代ギリシアの「教訓叙事詩」、ヘーシオドスの「仕事と日」には、一般の人の生活をリアルに記述した部分がある(松平千秋訳。岩波文庫。「/」は改行を示す)。

「またこの時節(1~2月)には、肌を守らなければならぬが、これからもわしがすすめるように、/柔らかい上着(クライナ)と足まで届く肌衣を身に着けよ。/縦糸を少な目に、横糸を多くして織るのだ。/これを着て肌を蔽えば、体じゅうの毛も静かに動かず、逆立って鳥肌になることもない。/足には、屠殺した牛の皮の、内側をフェルトで厚く裏打ちしたサンダルを/足にきっちりと合わせて穿け。/寒気の季節が到来したならば、一歳の子山羊の皮を、/牛の腱で縫いあわせよ、背にかかる/雨を防ぐためにこれを羽織るのじゃ、また頭には、/耳を濡らさぬように、フェルトで仕上げた帽子を被れ。」

時代の違いを(再び)無視して御託を少し。この執拗で細密な記述と、風土記の軽やかな文章とを比較すると、西洋の油絵の風俗画と絵巻や浮世絵との違いのようだ。リアルだがねっとりvsやや類型的だが洒脱。 続きを読む

古代の書物を読む楽しみ 常陸国風土記(3)  #6

前回と同じような、人々が集って楽しむ様を描いた例をもう一つ挙げよう。久慈郡(くじのこほり)の一節である。

「浄き泉は淵をして、しもに是れそそながる。青葉はおのづからひかりかくす。きぬがさひるがえし、白砂しらすなごは亦、波をもてあそむしろく。夏の月の熱き日に、遠き里近きさとより、熱きを避け涼しきを追ひて、膝をちかづけ手を携へて、筑波の雅曲みやひとぶりを唱ひ、久慈の味酒うまさけを飲む。是れ、人間ひとのよの遊びにあれども、ひたぶる塵中よのなかわづらひを忘る。」

前にあげた二つの文に比してやや説明的だが、これも「夏の月の熱き日」の実感を伝えて間然とするところがない。真夏の光のまぶしさ、それ故に濃くなる陰影、酷暑をも楽しみに変えて遊ぶ人々。個人的には三菱の創始者岩崎彌太郎の日記中、夏の一日を親族や社員と共に川原で楽しんだ場面を想起する。彌太郎の評伝を書くために彼の日記を熟読したからだが、まあ、そんな人間は世界中で私以外ほぼいないとしても、盛夏の楽しみが古代も明治時代も同じようなものだと分かるのは、やはり面白いことだ。私も子供時代にこんな楽しい時間を過ごしたことがある。今の子供も少し幸運なら可能だろう。 続きを読む